日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

MENU

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ネタバレあらすじ 第22話「義時の生きる道」

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(日曜・午後8時)の第22話「義時の生きる道」が6月5日に放送されました。世帯平均視聴率が12・9%。同時間帯ではテレビ朝日系「ポツンと一軒家」と並んでトップタイでした。

 

それでは第22話「義時の生きる道」の
ストーリーを見ていきましょう!

 

(八重さんを失った悲しみ)

何度もアタックしようやく結婚したものの川で遭難した小さい子供を救おうとして亡くなった八重さんに対し、義時は悲しみに暮れていました。

しかし、嫡男・金剛は義時以上に悲しんでいます。義時は金剛を抱き寄せ「鶴丸を恨むなよ」と言いました。この話はあとで生きてきます。

義時は自らを襲った不幸が、源義経を殺害した天罰ではないかと思い込みます。

そして御所へ行くことを控え金剛や孤児たちと過ごす事で哀しみをまぎらわそうとします。

それから数カ月後、頼朝が義時を訪ねてやって10月に上洛するので一緒に行くように

伝えます。

 

(頼朝上洛)

1190年10月3日、頼朝が大軍を率いて鎌倉を出発します。目指すは京です。このとき

義時も命に従って随行します。

11月7日に京都に入ります。この時、かつて平清盛が住んだ六波羅に建てた新邸に入ります。

11月9日、頼朝は後白河法皇との対面を果たしました。 この席で後白河法皇は、頼朝と手を携えることを約束します。そして、頼朝は後鳥羽上皇の相手として大姫を差し出す約束をしました。

その後、頼朝は九条兼実とも対面します。ここで兼実は、後白河法皇がもう長くなく、ともに後白河法皇の孫で壇ノ浦で亡くなった安徳天皇の異母弟の後鳥羽天皇を支えようと言います。さらに兼実は後鳥羽天皇に娘を入内させたことも告げます。この辺は妙なライバル関係がうかがえます。

 

御家人に広がる不満)

上洛した頼朝とは対照的に御家人の中では頼朝に対する不満が溜まります。

和田義盛は、はるばる都までやってきたのに、宴の席に頼朝がいないことが面白くありません。

宴会の席をたった義時に畠山重忠がやってきて「鎌倉殿に不満を持つ者たちが他の場所に集まっています」と告げます。

その時、頼朝の異母弟・源範頼のもとには、比企能員をはじめ、土肥実平、三浦義澄などたくさんの坂東武者が集まっていました。彼らは、今回の上洛は自分たちには利益がのないと不満をもらします。

範頼は御家人達と杯を交わしながら、彼らの不満を黙ってきき「兄は安寧な世をお作りになられたいのだ。そのためには大きな力を持たなければならないのだ。分かってくれ」となだめます。  

その後、比企能員と2人の席になると「上洛できて、みな喜んでばかりいると思っていた」ともらします。比企は「蒲殿(範頼)はいつも、あの者たちの声に耳をかたむけられる」と持ち上げます。範頼は「兄と違って、わしが暇だからだ」とかわしますが比企は「みな口にはせぬが思っておりますぞ、蒲殿が鎌倉殿ならばと」と何やら不穏な事をささやきます。しかし範頼は「兄上あっての私。つまらぬことを申すな」とたしなめます。

ここは蒲殿(範頼)の好感度を上げ死亡フラグが感じられます。

 

(曽我兄弟登場)

鎌倉に戻った義時は、孤児たちの世話に明け暮れます。

阿野全成、実衣、政子、大姫は八重さんの遺志を継ぎ孤児たちを育てようと取り組む

義時の様子を見に行こうと言います。

しかし、全成は、義時は忙しくする事で八重を失った哀しみを忘れようとしているので、今はやめた方がいいんじゃないですかとアドバイスします。

そこに、北条時政が2人の若者を連れてやってきました。2人は曽我十郎と曽我五郎です。

時政は曽我兄弟の叔母にあたる伊東祐親の娘を嫁に迎えていて、2人の間からは政子や義時が生まれています。

血縁を見ると曽我兄弟は、伊東祐親の孫、八重の甥にあたり、政子や実衣にとっては

親戚です。 

時政は、今から頼朝に目通りして曽我兄弟の2人を御家人に取り立ててもらうというのです。

しかし、3人が通り過ぎると全成は「無理だと思うなァ」と言います。・・というのは、この頃は戦乱がおさまり、頼朝は京都から文官を呼んで取り立てているので、曽我兄弟のような武官を取り立てる事可能性が少ないからです。時代の流れです。

 

(姉の優しさ)

義時は、亡くなった八重の遺志を継ぎ、孤児たちの面倒を見ます。しかしその孤児の数が10名以上もいて、一人では世話をみるのが大変です。

義時の所に孤児の面倒をみに、仁田忠常がやってきました。仁田は、三島大社に参詣した際、洪水に遭って乗っていた小舟が転覆し妻を亡くしています。実はその年の正月に忠常が危篤となったときに三島大社に参拝し自らの命を縮めても夫を救ってほしいと願をかけていたので、それが通じたのでしょうか??なんともいえません・・。

この仁田忠常も元気に駆け回る孤児たちの面倒を見るのにもうお手上げ状態です。

 

ここに、普段着姿の政子がやってきます。弟の事が気がかりでお忍びでやってきたのでした。

政子は餅をついて持ってきたと言い、義時と思い出話をしました。

幼少期の政子は、幼少の頃は義時を見るとどうしても首を絞めたくなると言って実際に首を締めようとします。おいおいなんなんだ!!

義時は気持ちの整理がついてきたようで、孤児たちは、色々な人に養子として引き取ってもらい、自分は金剛の子育てに専念することにしました。

政子は「その方がいい、八重さんもきっと反対はしないと思う」と言います。弟の心のフォローに来た優しい姉さんの姿を垣間見ました。

 

(法皇の死)

頼朝との対面から1年4カ月後の1192年3月、後白河法皇が病に伏します。死の間際に

法皇は「わしは皇室を守り抜いた」とつぶやき、幼い後鳥羽天皇に、「皇室を守り抜け、そして楽しみなさい」と遺言し崩御しました。

この遺言がのちの承久の乱につながります。

 

天敵で目の上のタンコブの後白河法皇の死去を見計らい頼朝は自分を武家の棟梁にふさわしい役職に任命するように朝廷に上奏します。

そして1192年7月、頼朝は征夷大将軍となります。

この征夷大将軍とはもともとは東北地区にいた蝦夷征伐の大将のことで、坂上田村麻呂が有名です。

「大将軍」の名称を希望した頼朝に対し朝廷がこの征夷大将軍を授けました。

以後、室町、徳川幕府まで650年以上、源氏の流れをくむ武家の棟梁の為政者が征夷大将軍に任命されて幕府を開くスタイルを作ります。

 

(征夷大将軍に大喜び)

征夷大将軍となった頼朝は「大したことではない。御家人共を従わせる肩書に過ぎん。」と言いながらも政子と会うと「征夷大将軍じゃ~!わしは日の本の武士の頂き。おまえはその妻じゃ」と大喜びし「。政子、呼んでくれ」とリクエストします。

リクエストに応じ政子は「征夷大将軍~!」 と喜んで呼びます。この時、政子は第4子となる千幡(後の3代将軍実朝)を懐妊していました。

 

(比奈登場)

翌月、政子は第4子となる次男を産みます。のちの実朝です。千幡の乳母には、政子の妹の実衣が選ばれました。しかし、頼朝の長男の頼家の乳父母である比企氏は、

これでは北条家が力を持ちすぎるのではないかと危機感を募らせます。

そこで、能員の妻・道は、能員の姪・比奈を頼朝のそばめにして源氏とのパイプを強くしようと画策します。

比奈を紹介された頼朝は「わしから政子には話しておくからよい」と安達藤九郎が「御台所(政子)の許可を得てから」と忠告するのを制して、比奈を御所に置きます。

 

しかし、比奈の事がすぐに政子の耳に入り政子はカンカンです。

頼朝が、比奈に双六を教えていて、手を伸ばそうとすると政子が現れます。頼朝は「あれだけの器量がいいおなごは坂東広しといえども、そうはおらん。小四郎にはぴったりだな。わしが比奈を狙っておるとでも思ったのか。小四郎のために決まっておるではないか。比奈なら、きっと、あいつの心を解してくれる」とその場しのぎの口から出まかせを並べます。

それに対し政子も「実はわたくしも同じことを考えていたの。あの子は比企の血筋だから小四郎と結ばれれば、比企と北条の架け橋になってくれるはず。これはきっとよいご縁ね。早速、話を進めさせていただきます。」。と渡りに船と淡々とまくしたてます。

これには頼朝は笑うしかありません。

こうして、たらいまわしで、義時の屋敷にやってきた比奈ですが、義時からは後妻を取るつもりがない事を聞かされます。

そして「金剛と親子で暮らしますので帰ってください」とまで言われます。

 

たらい回しとなったあと実家に帰った比奈は比企能員に「噂によると、あのお方(義時)、色恋になると相当しつこいらしいんです。薄気味悪くて」と語ります。 プライドを傷つけられたのかもしれませんが無茶苦茶言いますねええ・・

 

(うかない全成)

さて、頼朝の次男の千幡が生まれて浮かぬ表情なのが阿野全成です。

実衣は「千幡の乳夫になって、北条家の力が強くなるんだからメデタイ事じゃないの?占いではどうなったの?」と聞きます。

すると全成は「占いは吉だったのだが・・。そなたも知っている通り私の占いは半々しか当たらないので、いまいち信じる事が出来ない」・・。

おいおい!!このやり取りはなんじゃ??

しかし、今後の千幡や全成の人生を知っているとそれが当たっているので・・・。

 

 

(子供のケンカ)

孤児たちの多くが養子にもらわれ、屋敷には金剛と鶴丸だけになった時に、事件が起こります。金剛が安達藤九郎の子、弥九郎とケンカをしたのです。

 義時は金剛とともに安達の屋敷に謝りに行きます。金剛はどうして弥九郎を殴ったのかその理由を言いません。

義時は「言いたくないなら言わなくていいが、今後は決して相手をケガさせてはならない。 北条家は御家人でも格上の家柄だから、お前は感情を抑える必要がある」と伝えます。

まもなく藤九郎が息子の弥九郎を連れてやってきます。弥九郎は、後の安達景盛承久の乱のときには出家先の高野山から鎌倉方としてかけつけます。また三浦の乱とも言われる宝治合戦では北条と協力し三浦一門を滅ぼします。

 

義時と金剛は謝罪をし安達の館を去り家に戻ると鶴丸がやってきました。鶴丸は「金剛は悪くない!弥九郎が俺をみなし子と馬鹿にしたから、金剛が弥九郎を殴ってくれたんだ」とケンカの原因を告げました。

それなのに一切言い訳をせず黙っていた金剛。。良い奴ですなあ。しみじみ・・。

金剛と鶴丸・・今後のストーリーでどういう立場で登場するのか気がかりです。

 

(曽我兄弟の敵討ち)

1193年5月、北条時政は曽我十郎・五郎兄弟を家人として抱えていました。

そして、ある日、曽我兄弟から工藤祐経を討つと打ち明けられます。

工藤祐経は所領問題が原因で狩りの時に伊藤祐親の殺害を計画しますが、伊藤祐親ではなく伊藤祐親の長男で曽我兄弟の父である河津祐泰を殺害します。

夫を殺された祐泰の妻は、幼い息子2人を(曽我兄弟)を連れて曽我祐信のもとに再婚し兄弟は曽我の姓を名乗ることになります。

ここは登場人物の名前が似ていてややこしいので紙に家系図を書いた方が家系図がわかります。

曽我兄弟の父の敵討ちに対し、りくも時政もあっぱれな心掛けだと協力を約束します。かたき討ちはこの時代、このように評価されていたのでしょうね。

 

しかし、この会話を善児が盗み聞きしていました。

今回の善児は、人を殺すことなく、計画を立ち聞きしていただけです。善児が出たのに死人出なかったのは珍しいけれども、いるだけで恐怖を植え付ける恐ろしい存在です。

【アサシン善児のこれまでの暗殺経歴は下をクリック】

 

 

(仇討ちにじょうじて・・)

頼朝の長男で嫡男の頼家が12歳になったときに、彼を主役にして富士で、鹿や猪などが生息する狩場を大勢の勢子や追出犬によって取り囲み、徐々に獲物を巻き込んで射取る「巻狩」を行うことが決まります。

これは頼家の披露目の場であり、富士の裾野に御家人たちが集い武芸を競います。

この巻き狩りは曽我兄弟にとって絶好のチャンス到来です。

 

後日、比企能員の屋敷に、曽我兄弟、そして岡崎義実が揃います。

この席で曽我兄弟は、工藤だけではなく混乱に乗じて頼朝を襲う事を告白します。

曽我兄弟は、頼朝は祖父・伊東祐親の恩を仇で返した人物であるうえに、今は頼朝に近い者だけが得をするしくみになっていて理不尽であると言います。

岡崎義実は「新しい世をつくるため、我らは戦ってきた。ところが、平家の頃と、何も変わらないじゃねぇか」と言い「北条の兵を借りる手はずも整っている。」と付け足します。

時政は、曽我兄弟の敵討ちに加勢しますが、それと同時に予定されている頼朝襲撃は

知らないのです。

曽我兄弟と岡崎義実は、能員に頼朝を殺す為にともに立ち上がろうと呼びかけます。

能員は、今回の謀反は、ほぼ失敗すると考えていますが、失敗しても時政は曽我兄弟に兵を貸したので失脚する。また、謀反が成功したら、自分達には頼朝の長男で嫡男の頼家がいることから、彼が次の将軍になり比企が勢力を持つ。つまり、どうなっても今回の謀反は比企には好都合というのです。  

 

 (知らせを聞いた義時)

将軍暗殺と言う不穏な動きは、善児経由で梶原景時から義時の耳に入ります。

鎌倉殿に不満を持つ御家人が曽我兄弟の仇討ちの騒ぎにじょうじて鎌倉殿の暗殺を企んでいる事。そして、そのメンバーには時政もいるというのです。

いよいよ日本三大仇討ちの一つ「曽我兄弟の仇討ち」が始まります!!

(ちなみに日本三大仇討ちは曽我兄弟の仇討、赤穂事件、鍵屋の辻の決闘です。)