日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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6月18日 ひめゆり部隊に解散命令

 

 

終戦の年の1945年(昭和20年)6月18日、沖縄戦が繰り広げられていたなか、ひめゆり部隊に解散命令が出されました。

 

ひめゆり部隊とは)

日本軍は終戦の前年、1944年(昭和19年)12月に沖縄県で15~19歳の女学生を中心に看護訓練を行います。そこで訓練を受けた彼女たちは翌年の1945年(昭和20年)3月

から始まった沖縄戦で看護活動にあたります。

そのうち沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師や生徒でできた集団を「ひめゆり部隊」といいます。

名前の「ひめゆり」とは、沖縄県立第一高等女学校の学校広報誌の名前「乙姫」と沖縄師範学校女子部の学校広報誌の名前「白百合」の双方からとってできた「姫百合」という名称がもとです。

ひめゆり部隊は、ひめゆり隊」あるいは「ひめゆり学徒隊」とも言います。

 

沖縄戦で看護補助業務に従事)

米軍の沖縄上陸に対し日本軍は沖縄に陸軍中将、牛島満の下に第32軍約8万6千人を

配備していました。

米軍の沖縄上陸目前の1945年(昭和20年)3月23日に、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名からなるひめゆり部隊が、沖縄陸軍病院(通称・南風原陸軍病院)に看護補助要員として動員されます。

この沖縄陸軍病院は沖縄守備軍(第32軍)の直轄でした。病院といっても丘陵地に横穴を掘った壕や、ガマと呼ばれる自然の洞窟に寝床を作っただけ施設で、ここに軍医や看護婦、衛生兵など約350人がいました。ここに15~19歳の女学生・ひめゆり部隊が看護補助要員として動員されました。

 

米軍が沖縄に上陸し日米での地上戦が始まると連日負傷兵が病院に担ぎ込まれます。

ひめゆり部隊の面々は陸軍病院で正規看護婦の補助要員として負傷兵の治療や遺体埋葬などに従事したそうです。

戦況の悪化に伴い、5月22日に第32軍司令部が首里から南部の摩文仁に撤退すると、

同時に陸軍病院も5月25日に撤退をはじめ、糸満市井原にある壕に、第一外科、第二外科、第三外科を作りました。

ひめゆりの慰霊碑、これはなくなった方の納骨堂でもありますが、その慰霊碑がある

その手前の洞窟、よく見ると写真の左には「沖縄陸軍病院第三外科壕」の石碑があるのがわかります。壕の深さは14mで、当時はハシゴで昇り降りしていたということです。

(解散命令下る)

6月18日に軍司令部から「直ちに学徒隊を解散する。これからは各自の責任で行動してほしい」と言われ解散命令が出されます。「日本の女性として恥ずかしくない死を」と、日本兵から1人1人手榴弾を手渡されたという証言もあります。。

翌19日の朝、第三外科壕は米軍から黄燐手榴弾などの攻撃を受け、壕内にいた96名の

うち87名が死亡し、さらに壕を脱出した3名も銃撃で死亡します。

 負傷者や病者は非戦闘要員であり保護対象です。これを攻撃するのは戦時国際法で禁止されていましたが米軍は野戦病院を攻撃しています。そしてその行為は不問にされています。

 

また第一外科・第二外科の学徒隊も解散命令によって壕を出て、「鉄の豪雨」と表現される戦場をさまよい、多くの人が命を落としました。

最終的には、ひめゆり部隊の教師・学徒240人のうち136人が命を絶ちました。

 

ひめゆりの塔

ひめゆりの塔」という言葉はよく聞きますよね。

慰霊碑の右手前にある高さわずか数十センチの石、これが「ひめゆりの塔」です。

「塔」と言ってもそんなに高くありません。ひめゆりの塔は、ひめゆり部隊の忠霊塔で終戦の翌年1946年(昭和21年)4月7日に除幕式が行われました。

 

1945年(昭和20年)3月26日から6月23日まで沖縄で続いた沖縄戦は凄惨を極めました。1976年(昭和51年)3月に沖縄県援護課の発表によると、日本側の死者数は18万

8136人。うち沖縄県出身者は12万2228人、一般人は9万4千人でした。

ひめゆり部隊は、女子生徒222人と引率教師18名の合計240名にうち136人が死亡しました。

また、ひめゆり部隊以外にも、様々な隊があり、その多くの方が犠牲となられました。

 

・・・ということで 

6月18日は ひめゆり部隊に解散命令が起きた日です。

亡くなられた方のご冥福をお祈りします。