7月7日は1944年(昭和19年)
太平洋戦争でサイパン島が玉砕した日です。
(日本信託統治領)
日本から2200キロ離れた太平洋中部のマリアナ諸島にはサイパン島、テニアン島、
グアム島などがあります。
今では観光地・リゾート地として有名で多くの観光客が訪れています。
しかし、ここはかつて日本だったのです。
1914年(大正3年)に勃発した第1次世界大戦では、日本は日英同盟に基づき、8月23日、ドイツに対し宣戦を布告します。
10月14日には、赤道以北の独領南洋群島を占領し、海軍による軍政を実施します。
そしてパリ講和会議で、この地域は日本の信託統治領となり、サイパン島には南洋庁
サイパン支庁ができます。
ちなみに サイパンは、日本の領土になったことで漢字で「彩帆島」と表記されます。
(サトウキビや水産業で栄えるサイパン島)
サイパン島は南洋諸島の中心地で、日本内地への貿易の玄関口として栄えます。
また、サトウキビが栽培され、そこからとれる砂糖の産地、さらに漁業基地、水産業、
水産加工業も発達し多くの日本人が移住し栄えます。
1943年(昭和18年)3月の調査ではサイパン島の日本人は3万人近くいて島の人口の9割を超えました。さらに彩帆神社(香取神社)も建てられました。
こうしてサイパン島は1945年(昭和20)年までおよそ30年間、「日本の領土」としての歴史を歩みます。
(戦略的に非常に重要な拠点)
太平洋戦争が始まると、サイパン島は、その地理的条件から日本本土への直接爆撃が
可能な距離にあるため、戦略上、非常に重要な「太平洋の要衝」となります。
そのため大本営はサイパン島を絶対国防圏の最前線と位置づけました。
日本軍はマリアナ諸島やトラック諸島防衛のために第31軍を編成し、サイパンの防衛は
第34師団が担うことになります。
1944年(昭和20年)5月にはサイパンに一万人の兵士が到着しました。
日本政府はサイパンが戦場になるため、当時、サイパン島に住んでいた3万人近くの
日本人と4,000人の現地人を日本本土へ疎開させようと計画しましたが、すでに制海権はアメリカに渡っていて輸送船はアメリカ軍に撃沈されてしまい、疎開が実現しません。
(6月15日米軍上陸)
1944年(昭和19年)6月15日、アメリカ軍がサイパン島に上陸します。
アメリカ上陸部隊は最終的に7万人、迎え撃つ日本軍は約4万3000人でした。
サイパン島では日米両軍の激しい戦闘が繰り広げられ、島には今も日本軍の戦車などが残されたままです。
(バンザイクリフの惨劇)
サイパン島での日米戦は7月に入ると、日本が兵力の大半を失い、島の端へ追いつめられていきます。
このとき、島にいた3万人の民間人はアメリカの投降勧告を拒否し、崖から飛び降りたり、服毒自殺、あるいは手りゅう弾での自爆などで次々に自殺します。
多くの住民が身を投げたのがバンザイクリフです。
バンザイクリフには慰霊碑が建てられています。
(7月7日サイパン島玉砕)
そして7月7日、日本軍守備隊は最後のバンザイ突撃を行い全滅し、サイパン島は
玉砕、陥落します。
【サイパン島玉砕を知らせる当時の日本ニュース:1944年(昭和19年)7月22日公開】
サイパン島の陥落により、ここを拠点としてB-29による日本本土の大部分への攻撃が可能になったのでした。
このサイパン島の日本軍玉砕の知らせを受けてから11日後の1944(昭和19)年
7月18日、東條内閣が総辞職します。
・・というわけで
7月7日はサイパン島玉砕の日です。
亡くなられた方のご冥福をお祈りします。