凄まじい階段!!その数279段!
しかも40度近い急勾配!!
江戸時代には、吉田松陰も参拝しています。
(心臓破りの急階段、その数279段)
道路に面した鳥居、しかし福浦金刀比羅宮の本殿は山の上にあります。
この鳥居から頂上へ行くには40度近い急勾配で279段の石段を上がります。
279段!!うーんこれは考えますね・・
でも上りましょう!!
石段の先に二の鳥居が小さく見えます。。ここまでいくのだああ
石段を数えながら登ると、金毘羅山に住む狐がイタズラして段数を間違えてしまうと
伝えられます。しかし、279段の階段に上るだけで精一杯で数を数える余裕はありませんでした。
途中4回ほど休憩しましたがなんとか登り切ったぜええ!!爽快だあ!!
階段を上り終えると二の鳥居と本殿が目の前に。。こじんまりとした本殿です。
頂上からは、島々=六連島、蓋井島、白島、さらに対岸の九州小倉まで一望できたそうです。
神社は神聖な地域と言うことで樹木の伐採は禁じられているため、年月とともに境内の樹木が成長して、覆いかぶさり、今は外を眺めることは全くできなくなっています。
また 灯籠もあって福浦に来る船の目印とされていたようですが、今はなくなっていました。
(金刀比羅宮の歴史)
金刀比羅宮は御覧のように海のすぐ近くです。
ここは江戸中期から、蝦夷と大坂の間を、日本海沿岸の各港に寄港しながら、下関、瀬戸内海を通って往来した北前船の風待宿場としてにぎわいました。
1819年に旧藩主毛利元義が、海防と福浦港の繁栄を図るため長府忌宮神社境内に祭っていた金刀比羅宮をうつし、翌年には神殿・拝殿が完成し遷座祭を行いました。
その後1830年には、鳥居・玉垣・狛犬・灯篭などがそろい、遷座十周年の式年大祭を
行っています。
金刀比羅宮が出来てからは北前船が寄港すると、宮司が船まで出向いて、海上安全の
祈祷をしてくれたそうです。当時は現在と違いレーダーやナビの機械もない時代、海に乗り出すときの安全祈願は有難かったと思います。
このもてなしが評判となり参拝者や寄港する船が増えて、福浦の港は非常に賑やかだったようです。
(吉田松陰も参拝)
この神社には吉田松陰も参拝しています。
吉田松陰が書いた海防視察日記「廻浦紀略」(かいほ きりゃく)によりますと、吉田松陰は1849年(嘉永2)年に藩の命令により北浦、下関一帯の海防調査を命じられ、
7月16日には金刀比羅宮に登っています。
この神社の石段は北前船からの寄付金によって少しずつ石段が増えていきます。
吉田松陰が訪れた当時は、石段の数は160段でした。松陰は「廻浦紀略」には「完成すれば200段ばかりにもなろう」と記しています。
しかし完成品は279段、予想を上回りました。それだけ繁盛したという証でしょうか。。
(福浦富観台之碑)
山頂の境内の拝殿の左に小高くなった所があり、ここに碑文がありました。
1830年(文政十三年)9月に長府毛利藩の儒学者・小田圭により造られた「福浦富観台記の碑」です。
碑に漢文で刻まれた文章には、福浦湾の景色の素晴らしさが書かれています。
松陰もこの碑文を読んでいます。
<<福浦金刀比羅宮への行き方>>
JR下関駅からバス14分「福浦本町」下車、徒歩2分
下関 I.Cから車14分
住所:下関市彦島福浦町1丁目25
近くには駐車ができるスペースがあります
森に囲まれ木々と一体化したような、
そんな雰囲気の神社でした。