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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ネタバレあらすじ 第27話「鎌倉殿と13人」

 

2022年(令和4年)7月17日(日)に放送された鎌倉殿の13人の27話「鎌倉殿と13人」です。
7月10日が参院選特別番組のため放送が
休止だったために2週ぶりの放送です。
世帯平均視聴率は前回第26話の12.9%から
1.2ポイント減の11.7%でした。

では第27 話「鎌倉殿と13人」の
あらすじを見ていきましょう。

(京に届いた頼朝の死)

1199年1月、京に頼朝の訃報が届きます。土御門通親から源頼朝の死を知らされた後鳥羽上皇は頼朝の死因を考えます。頼朝の死の理由の推測の過程が面白いです。
上洛の時、頼朝が水をよく飲んでいたことから糖尿病ではないかと推測します。

この後鳥羽上皇後白河法皇の孫、壇ノ浦でなくなった安徳天皇の異母弟で、史上初の三種の神器がないまま即位した天皇です。三種の神器がなく即位したので色々と陰口を叩かれ嫌な思いをしたようです。

後鳥羽上皇の邸宅跡地は,五辻殿(いつつじどの)と呼ばれていて、現在は石碑や案内板があります。

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(ドクロ)

一方、鎌倉。
新しい鎌倉殿となった源頼家はこのとき18才。今で言うと高校3年生ですね。この若さではくせ者揃いの鎌倉をまとめるのはなかなか困難ですね・・

さて、その頼家は御家人たちに所信表明を行うこととなりました。
その前に、義時からは「自分の信じるままにのびのびとやってもらいたいと」と言われます。
また母の政子からは祖父・義朝のものと言われるドクロを見せられます。頼朝はこのドクロを機に兵を挙げる決心をしたもので、このドクロは全ての始まりであり代々受け継がれる上に立つ者の証だ、と……。でもねえドクロじゃ不気味ですわなああ・・・

 

(動き)

頼家は御家人たちの前で「私は比企や北条を特別扱いするつもりはない。私は家の名で人を選ぶことをよしとはせぬ。誰であれ、力のある者を登用していくつもりだ。
それが、この頼家の政である」と宣言します。

部屋を出たあと、頼家は梶原景時に発言を褒められ、さらにこう言われます。
「頼朝様は最後まで、御家人たちに心を許してはおられませんでした。それがしを除いては。」・・このやりとり!梶原景時の魂胆が見えますねえ。

頼家は、義時には若手人材を集めるように指示しました。
義時はまず、嫡男の頼時に加わるように声をかけ、さらに、彼らより年上で頼時の叔父である時連をえらびます。義時は頼時に「鎌倉殿がおかしなほうへ行ってしまわぬよう、年長者として目を光らせよ。動きを逐一知らせてほしい。」と言います。義時のスパイですね。


(暗殺計画)

2月に入り、京では後鳥羽上皇の後見役である土御門通近の暗殺計画が発覚しました。暗殺を計画したのは、公家の一条家と縁のある御家人たちでした。

一条家は、頼朝との関係が深く、頼朝の長女・大姫を嫁がそうとした先です。そのため、朝廷から一条家と鎌倉との関係を説明するように、書状が送られてきました。

頼家は、景時の進言を受け入れ中原親能に朝廷との交渉役を命じます。

さらに、上皇様の意向に沿うべきだとの言葉を受け入れ、「その不逞な御家人どもを
処罰せよ。今は朝廷ともめ事を起こすときではない。」と
使者を送り、その裁きを後鳥羽上皇に一任してしまいます。

 

(若手の勉強会)

頼家による新体制の下、三善康信を顧問役とし、頼家の提案で若手御家人の勉強会が
始まります。
訴訟の裁きを真剣に学ぶ若手達。
さらに頼家は彼らに教養としての位置づけであり、上洛後、朝廷と蹴鞠をするときに
役立つというので蹴鞠を習わせます。
蹴鞠では時連がその上手さを披露します。北条の集まりで餅を丸めるのは下手でしたが蹴鞠は上手なんですね。時連は頼家から褒美を頂戴します。

 

(うんざりしてきた頼家)

鎌倉殿を襲名した頼家の元には、訴状がたまり山積みになり、頼家はその処理が大変です。

いっこうに減らない仕事に頼家はうんざりして正室のつつじのところへ行きますが、
ここに側室のせつもやってきて2人でバチバチが起きてしまい嫌気がさして退出していきます。

 

(幼き時から頼家を見てきた比奈)

義時と頼時は、頼家の力になりたいという思いはあるのですが、頼家のことを見守ったほうがいいのか、それとも手を貸したほうがいいのか、どうすればいいのか迷っています。
比奈は比企の出であり、乳母父である比企家で育った頼家を、小さな頃から見ているので、頼家の性格を周知しています。
その比奈が義時に言います。
「頼家は困った時ほど、助けてくれと言えない性分なんです。木に登って下りれなくなっても、絶対に助けてくれと言わなかった。」と。

それを聞いた義時は、頼家を助けようと意を決します。

(5人衆からどんどん増えて・・)

頼家体制を固めるには梶原景時の協力が必要だと感じた義時は、文官4人が評議を取りまとめ、梶原景時に文官と頼家の間を取り持ってもらうという「5人衆」というシステムを伝えます。

景時が、この5人衆を頼家に伝えると、頼家は、最後の決定権が自分にあるということに満足し、この案を承諾します。

次に義時は、比企能員と逢い、この考えを提案します。比企は賛成しますが「梶原が入っているのに、なぜ比企が入っていないのだ。」と言い自分も加わります。
こうなると北条時政も「梶原と比企が入っていて、北条がいなくてどうする。7人衆だ。」と。

まあこんな感じで、比企も北条も双方に味方をする御家人を勧誘していきます。

北条時政が北条側の人を増やそうとしますが。。

「佐々木のじいさんは?」「もう死にました」

「千葉のじいさんは?」「もう死にます。じいさんはやめましょう。」ストレートすぎて笑っちゃうなあ・・・

と言う具合に数がドンドン増加し最後は12人に増えてしまいます。

 

(13人衆)

一方、夫・頼朝を亡くした政子は、出家し以後は「尼御台(あまみだい)」と呼ばれるようになります。

義時は、尼御台となった政子に12人で頼家を支えていくことを報告に行きますが、
政子はもう1人加えろと言います。
そして「13人目はあなたです。」と

こうして義時が加わり、合計 “13人衆”になります。

吾妻鏡』によれば、1199年4月12日、北条時政・同義時、大江広元三善康信中原親能、三浦義澄、八田知家和田義盛比企能員安達盛長足立遠元梶原景時二階堂行政の13名が協力して話し合い鎌倉幕府の政務運営を行うことになります。

 

(私はそんなに頼りないか・・)

義時は、なんとなく気まずい気持ちで出ていくと、頼家に会ってしまいます。
頼家に5人衆が増えて13人になったことを告げると、頼家は「私はそんなに頼りないか。私なりにせいいっぱいやっているつもりだが、それが気にいらぬか」・・と嘆きます。
さらに、その13人衆の中に義時が入っているのを知ると、頼家は「義時は自分が信じるままにやれと言ったのに……。」と裏切られたような気持ちになります。

そんな頼家に義時は言います。
「お父上のことも、そうやってお支えしてきました。頼朝殿も初めから鎌倉殿だったわけではありませぬ!鎌倉殿の新しい鎌倉を皆で築いてまいりましょう。」

 

(私は騙されない)

翌朝、頼家の前に13人の御家人が勢ぞろいします。
義時は12人の名を呼び「並びに江間義時。以上、13名でございます」。
景時が「これより訴訟取り次ぎはこの13人によって執り行います」と報告します。

頼家は「平三、聞いていた話とは違うな。むしろ誰か1人に力が集まらないので、好都合だ。のう、小四郎。しかし、私は騙されない。丸め込んだつもりでいたかもしれんが、小四郎、端からわしはおまえたちを信じてはおらぬ。父上は最後まで御家人に心を許してはおられなかった。わしも同じだ。平三、残念だ」

そして頼家は頼時、時蓮、比企能員の2人の息子など6人の若者を連れてきたのです。
頼家は「わしが選んだ。手足となって働いてくれる者たちだ。信じられるのは、こやつらだけよ。これより、わしの政はわしとこの者たちで行う。もちろん、おまえたちと切磋琢磨してのことだ。新しい鎌倉を、皆で築いて参ろうではないか」と言います。

景時はつぶやきます「頼朝様は、いささか亡くなるのが早すぎましたな」――。
あっけにとられる御家人衆。
義時は茫然として頼家を見送ります。

 

馬鹿正直に「お前らのこと、信用してないんで」と本人達の前で言う頼家!!空気読めよ!!
そんなことを言われた13人みんなは「上がそんなんじゃ、もうやってらんねー」と
なりますよね。

頼家たちの6人と13人衆の対立?亀裂?分裂??
鎌倉幕府分裂のピンチ。大波乱の不穏な船出です。

(つづく)