日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡)

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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ネタバレあらすじ 第28話「名刀の主」

 

 

鎌倉殿の13人第28回の「名刀の主」の
平均世帯視聴率は12、9%で前週より1.2ポイントアップで、この時間帯トップでした。

では第28話のあらすじを見ていきましょう。

(烏合の衆)

鎌倉では13人による評議が始まりましたが、これがもう全然ダメ。
自分が知っている者の名前が出てくると、北条側と比企側が、知り合いという事で
そちらに味方してしまうありさま・・。公平とはかけ離れたもので、まさに烏合の衆とはこのこと!
この状況に遭遇した梶原景時は「これでは評議になり申さぬ!」と声を荒げますが、
全然効果なし。逆にこんなことを皆の前で言うから梶原の評判がますます悪くなります・・・。

 

(結城朝光謹慎を命ず)

 政子の妹の実衣に琵琶を教えている下野の御家人・結城朝光は数日前、仁田忠常
雑談していました。
その内容はと言うと・・。新しく鎌倉殿になった頼家に対してのことで、頼家は、宿老の意見に耳を貸さず、蹴鞠に興じていて「とても鎌倉を率いるに相応しいとは思えない。頼朝様には、もっと生きていてほしかった。忠臣は二君に仕えず」。と話します。この話は、傍にいた善児から景時に伝わり、翌日、朝光は謹慎を命じられます。


(女好きの血筋)

 頼家は安達盛長の息子・影盛の妻・ゆうとデキてしまいます。不倫です。
お父ちゃん頼朝同様に女好きです。頼時は、頼家に、「これは人の道に反している」と意見しますが、頼家は聞く耳をもちません。

そして、頼家は御家人たちの前で盛長・景盛親子を呼び「ゆうをくれ」と言います。
しかし人を集めた席で「お前の妻をワシにくれんか?」っていうのは非常識と言うか、馬鹿と言うか・・。

景盛も盛長も当然これを拒否します。
盛長が「こればかりは承知するわけにはいきません」と突っぱねると頼家は「わしに背くことは、父に背くこと」と恫喝。 おいおい何という理屈!!
しかし盛長は「家を焼き払われようが、鎌倉を追い出されようが、たとえ首をはねられようが、私の心は変わりませぬ。お父上を悲しませてはなりません」と諌めると、頼家は「よう言うた。今すぐ首をはねよ」と命じる展開に。おいおい あほ丸出し!

これでは御家人はひいちゃいますよ・・。
このやり取りを梶原景時が頼家を止めようとしても全然聞く耳を持ちません・・。
そこに頼家の母の政子が登場。母がいさめても頼家は「父上も同じことをやっていたではないか」という始末。もうバカやなあ。政子は「いい加減に目を覚ましなさい。自分のやっていることが分かっているのですか!」と息子を厳しく叱責します。
頼家は「母上を担ぎ出したな。覚えれおれ」と叫びますが、景時は「他に手がございませんでした。覚えておきまする」と。

 

(訴状)

このようなゴチャゴチャした中、景時は、頼家への不満を口にした結城朝光をみせしめに殺すことを提案します。おいおいなんてことを!!
景時は、頼家に反発心を持つ御家人を一気に排除するつもりです。策士やなあ・・。

義時は事を荒立てないために、三浦義村畠山重忠和田義盛に相談しますが、これがかえって逆にこの事態が更に大ごとにします。
上総広常を斬った景時、しかも最近は偉そうにふるまう事が多いので御家人たちの不満が膨らんでいました。

義村は「人数を集めて訴状に名を連ね、鎌倉殿に処分を訴え出るんだ」と提案し和田義盛畠山重忠は賛成し署名を集めます。

 

(りくの知恵)

訴状に書く御家人の最初は時政。りくは「これを機会に、梶原を引きずり下ろしてしまいましょう。四郎様のお名前は御家人の重しになります。一番最後にデンとお書きください」と巻紙の一番左端に名前を書くように促します。

人数がどんどん増え訴状に署名したのは67人に膨れ上がります。義村は「思ったよりも梶原のおっさん、嫌われていたようだ」とつぶやきます。

翌日、大江広元に連判状を預けると時政に報告したとき、りくが訴状の一番左端に書かれた時政の名前を小刀で切り離します。
「うちの人は関わりなかったことにさせていただきます。百に一つ、鎌倉殿と梶原殿が結託したら、どうするのです?名を連ねた御家人たちは根こそぎやっつけられてしまいます。」と言います。
これで連判状からは時政の名前は消えてしまったのです。
もし何か起きても時政の名前がないため時政にはお咎めがないようになるのです。
抜け目ない!!頭が良い。

 

(景時謹慎)

結局、梶原景時に対し、御家人66人が連判状に署名しました。
頼家は、梶原景時からの結城朝光への謀反伺いの訴状と御家人たちからの連名で上がった梶原景時への不満を書いた連判状の双方を受け取ります。
そして景時を呼び、事の顛末を聞き景時を謹慎とします。

 

(次女・三幡死す)

1199年6月、政子と頼朝の次女・三幡が闘病の末、亡くなります。そして三幡の乳母夫だった文官・中原親能は出家し、鎌倉を離れます。

 

(京都からの誘い)

謹慎中の景時に対し、京都の後鳥羽上皇が「こっちにおいで」とヘッドハンティングをします。景時は、この誘いに乗って上洛を図ろうとします。
しかし、その話を景時は義時にしてしまい頼家に伝わります。

 

 (忠臣は 二君に仕えず)

「忠臣は 二君に仕えず」・・「忠臣は一度仕えた以上、主君をかえることをしない。」と言う意味で今回のキーワードです。梶原景時は結城朝光を陥れるためにこの言葉を出しましたが、結局は自分がこの言葉で身を滅ぼすことになります。


刀は斬り手によって名刀にも鈍らにもなる。鈍らでは終わりたくなかった、という景時は鎌倉を去ります。
鎌倉から去っていくときに景時は義時に善児を置き土産とします。
善児が置き土産・・・義時のお兄さんを殺した人なんですが・・。
アサシン善児、、これから義時のもとでどんな動きをするのか、楽しみです。
アサシン善児のこれまでの暗殺リストは下をクリックして御覧下さい。


(鎌倉を去る景時)

鎌倉を去る前に景時は、比企能員の屋敷を襲撃し、頼家の子供の一幡を人質に取り、
そのまま逃走しようとしていました。
しかし、義時がやってきて説得し、結局、景時は比企館を後にし流罪先に向かいます。

しかしよく考えれば景時が千幡を擁立して決起したとすれば 大謀反反逆罪であり、
鎌倉追放されるだけでは済まなかったはずですが・・。

 

義時の説得で比企の宿を後にした梶原景時ですが、義時は頼時に「すぐに兵を整えよ。梶原殿は必ず西に向かわれる。東海道で討ち取る。梶原殿は華々しく戦で死ぬおつもり。武士らしくな。急げ」と命じます。義時も腹黒いなあ・・・。

・・とまあ、頼家のダメダメぶりと、御家人のバラバラ感で混とんと言うか、なんとも言えない状況になってきた鎌倉でした・・・。