★今回の撮影および資料提供に関して、大膳自治会の皆様にご協力を頂きました。
皆様、本当にありがとうございました。
爆撃で街が破壊されることを阻止するために
敵機に体当り!
自らの命と引き換えに故郷の街を守ってくれた
兵士に対し、地元の方々が毎年開催している
慰霊祭があります。
その慰霊祭に参加させていただきました。
(体当たりで街を守る)
1944年(昭和19年)8月20日早朝、中国四川省成都を発進したB29重爆撃機が、北九州の八幡製鉄所などの軍需工業を攻撃目標として飛来します。
「敵機襲来」の情報を受け、北九州の防空を担当していた山口県の下関にある小月基地では戦闘機が迎撃に発進します。
午後5時、B29編隊が八幡市折尾上空にさしかかった時、陸軍第十九飛行師団・飛行第四戦隊所属の野辺重夫陸軍准尉と高木傳蔵陸軍軍曹が搭乗する二式複座戦闘機「屠龍」が応戦します。
下のプラモデルが屠龍です。日の丸に白い帯が突いているのは防空を示します。
しかし迎撃できず、このままだと北九州に爆弾が投下されてしまうと察知し「野辺今から体当り」と打電しB29の斜め前方から体当りを敢行します。
体当たりをうけたB29は火を噴きキリモミ状態で落下、その破片が他のB29の翼にあたって空中分解し現在の永犬丸小学校運動場あたりの谷間に激突し爆発・炎上します。
つまり、野辺・高木機は2機を同時撃墜する戦果を挙げました。
自らの命と引き換えに北九州を守った勇士・野邊重夫准尉は23歳、高木傳造軍曹は19歳でした。
この戦いは、当時のニュースで取り上げられ、後半に野辺・髙木両氏の名前が出ています。
【8月20日の戦いを告げる当時のニュース映像】
その模様を伝える当時の新聞(1944年:昭和19年8月22日朝刊)空襲は20日、21日と2日続いたので22日の朝刊に記事が掲載。
野辺軍曹の記事が右下にありましたので、抜粋します。
(命を捧げ故郷を守ってくれた勇士に感謝と敬意)
命を捧げて故郷を守ってくれた2人の行為に対し、地元の人たちは大きな感謝の気持ちを抱きます。そして、直後に屠龍の残骸や遺体が見つかった丘に2人の慰霊碑を作ります。
忠魂碑の土台部分は、町民や小中学生が海岸から運んできた砂でできた手造りです。
(地元で受け継がれている慰霊祭)
慰霊碑がある八幡西区の大膳自治区の方々が 今でも、毎年8月の第1日曜日に、慰霊碑がある広場で慰霊祭と周辺の清掃活動を行っています。
おっさんは2021年(令和3年)に初めて慰霊碑に参加しました。
【2021年(令和3年)のB29体当たり勇士慰霊祭の様子は
下をクリック】
(2022年(令和4年)の慰霊祭に参加)
2022年(令和4年)の慰霊祭は、8月7日(日)午前7時半、区長や副区長、地元の方など30名程度が集まって慰霊碑前で行われました。
石碑の正面には、B29に体当たりをした野邊重夫准尉と高木傳造軍曹の2人の遺影が飾られていました。
午前7時半、自治会長の挨拶で2022年(令和3年)の慰霊祭が始まりました。
あとから話を伺いましたが、この会長のお父さんが体当たり勇士の話を後世に語り伝えようと決意し、そのためだけにこの地に引っ越してきたそうです。
そしてこの慰霊祭を守り続け、さらに息子の現会長に受け継がれているそうです。
この話だけでも、体当たり勇士の行動が地元の人々に感謝されているという事がわかります。
そのあと宮司さんの祝詞奉納。この宮司さんは、今回のB29体当たりをこの目で見た
証言者でもあります。
(神楽奉納)
慰霊碑の前での神事のあと、慰霊碑の隣で地元の折尾神楽が奉納されました。
奉納神楽の最後は、餅を観客に投げます。
おっさんも餅を頂きました。
(地元で何が起きたかを語り伝えていく)
自治会の方によると、この慰霊祭は、日本がGHQから独立した1953年(昭和28年)から毎年実施しているそうです。この慰霊祭は、今後も途絶えることなく未来に継承していくと話しておられました。
【B29体当たりの碑について書いたブログはココ】
【北九州市役所公式HP 体当たり勇士の碑】
<<体当たり勇士の碑への行き方>>
車でどうぞ
住所:福岡県北九州市八幡西区さつき台1丁目13-10
命と引き換えに守ってくれた方、
その恩を忘れずに地元の方々が伝え続けている慰霊祭。。素晴らしいと思います。