終戦の1週間前、1945年(昭和20年)8月8日、当時の日本の工業の心臓部で鉄鋼
生産の拠点だった八幡製鉄所やその周辺の壊滅を目的とした大規模な空襲が起きます。
八幡大空襲です。
この八幡大空襲では、約1万4千戸が焼損、約2500人が死傷しました。
八幡大空襲の慰霊祭が、空襲から77年目となる2022年{令和4年)8月8日{月}午前9時半に行われたので参加してきました。
(多くの方が亡くなった小伊藤山公園で慰霊祭)
慰霊祭が行われたのはJR八幡駅から10分ほど歩いた場所にある小伊藤山公園です。
ここ小伊藤山公園がある周辺は、かつては小伊藤山と呼ばれていた高さ50メートルほどの小高い丘があり、太平洋戦中には、防空壕が築かれていました。
今回は慰霊碑の前に、この防空壕を再現した模型が飾られていました。
また慰霊祭会場入り口には、その防空壕を再現した入り口の模型も作られていました。
(空襲は八幡の街を焼き尽くした)
八幡には、1945年(昭和20年)年8月8日午前9時半ごろ、200機を越えるB29が来襲し、45万発を超える焼夷弾を投下します。各地で瞬く間に火災が起こり、街は焼き尽くされ、壊滅的な被害を受けます。
空襲を避け学生、引率の先生、市民がこの山に造られた防空壕に避難しました。
しかし周辺は火煙や吹き込む煙に包まれ、さらに防空壕の中には、その煙が吹き込み、防空壕の中は蒸し焼き状態となり結局、小伊藤山の防空壕にいた300人以上が犠牲と
なりました。
下の写真は、今回、慰霊祭を実施した団体から頂いたパンフレットに記載されていた
八幡大空襲で焼け野原になった八幡の街です。
(前年のパンフに記載されていた写真とは違っていました)
戦後、小伊藤山は崩され1952年(昭和27年)に公園となり戦災死者を追悼する慰霊塔が建立されました。
(慰霊祭)
八幡大空襲の犠牲者を追悼しこの惨劇を語り伝えようと毎年開催されている8月8日の
慰霊祭。
おっさんは去年もこの八幡大空襲慰霊祭に参列しています。
【2021年(令和3年)八幡大空襲慰霊祭の様子は下をクリック】
2022年(令和4年)の八幡大空襲慰霊祭は、コロナウイルスの影響で小規模だった前回とは違い、会場にテントが張られ大規模でした。
まずは体験の聞き書きや保存をしている市民団体「平野塾」の方の挨拶ではじまり、
続いて慰霊碑前で亡くなられた方々で名前がわかる方々の名前の読み上げが行われました。
不戦の誓いが読み上げられたり、詩が朗読された後、午前10時過ぎに、空襲警報のサイレンが再現され参加者全員が犠牲者に対し黙とうを捧げました。
さらに、小学生の合唱や八幡製鉄所OBの合唱も行われました。
最後は参加者全員での慰霊塔への献水です。1人1人に水が入った紙コップが渡され、
各人、これを慰霊塔に捧げました。
これは空襲を受けたとき、焼夷弾の熱風で防空壕に避難していた方々は蒸し焼き状態となり全員死亡しました。さぞ暑かったことだと思います・・。
おっさんも献水・・。
さらに、亡くなられた方々の慰霊と世界恒久平和を祈りました。
(八幡関連)
鉄は国家なり!!八幡製鉄所
B29日本本土初空襲は八幡です。
B29に対し体当たりで撃墜したのも八幡です。
B29体当たりで撃墜した勇士の慰霊祭に参加してきました。(2021年:令和3年)
B29体当たりで撃墜した勇士の慰霊祭に参加してきました。(2022年:令和4年)
<<小伊藤山公園への行き方>>
JR八幡駅から徒歩5分
8月8日、日本の製鉄の拠点・八幡製鉄所を襲った
八幡大空襲。
77年目となる慰霊祭に参加してきました。
亡くなられた方のご冥福をお祈りします。