日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

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【鹿児島の特攻隊関連施設を巡る⑥】 陸軍万世特攻基地  


特攻基地慰霊の旅・・

祖国や故郷のために自らの命を捧げた先輩方に対し感謝と追悼の想いを込め、
鹿児島をおとずれ特攻基地に足を運びました。

今回紹介するのは陸軍万世特攻基地です。

 

(陸軍最後の特攻基地:万世飛行場)

1944年(昭和18年)夏から翌年末にかけて鹿児島県の吹上浜に陸軍最後の特攻基地と
なる万世(ばんせい)飛行場が建設されました。
特攻基地というと知覧を思い浮かべる方も多いと思いますが、万世飛行場はその知覧から西へ15kmの距離です。
戦争の激化と戦況の悪化にともない、知覧飛行場だけでは足らないために急遽、突貫工事で飛行場が造られました。急造のためこの飛行場の滑走路は短く、土を固めただけのものでした。

万世飛行場は本土防衛沖縄決戦の基地という重要な役割を果たします。

1945年(昭和20年)3月28日から終戦まで、陸軍特別攻撃隊振武隊、飛行第六十六戦隊、飛行第五十五戦隊の方々が特攻作戦で出撃し、そのうち201人が戦死しています。

ちなみに特攻隊のうち、九州から出撃した部隊は「振武隊(しんぶたい)」、 台湾から
出撃した部隊は「誠飛行隊(まことひこうたい)」と呼んでいます。

なお、万世基地から出撃した飛行機の82%にあたる9隊90機、66戦隊34機が1939年(昭和14年皇紀2599年)に生産された九九式襲撃機です。

 

特攻機薩摩半島南端にある開聞岳を通過し600キロ離れた沖縄を目指します。
沖縄までは、1時間半から2時間程度かかりました。

 

(万世特攻平和祈念館)
戦後その万世飛行場跡地に、恒久の平和を祈念して建てられたのがこの祈念館です。

正式名称は南さつま市立万世特攻平和祈念館です。

 

建物の外観は、複葉練習機の「赤とんぼ」の複葉型を形取り、大屋根に平和を祈る
合掌をシンボル化しているそうです。

 

(零式水上偵察機

館内には、吹上浜沖から引き揚げられた、「零式水上偵察機」が展示されていました。陸軍の特攻基地に海軍の飛行機というのも違和感がありますが、この近くで引き揚げられたということです。

零式水上偵察機は1940年(昭和15年)12月に日本海軍に兵器採用された水上偵察機です。 

【万世特攻祈念館に展示された零式水上偵察機の案内版に提示されていた写真】

おっさんがその横に立つと零式水上偵察機の大きさがわかります。

<展示されている零式水上偵察機の説明>
すぐれた航続力と搭載力をもつ本機は、太平洋戦争中の全期を通じて、海軍作戦地域の殆ど全域にわたって活躍し、 偵察のほか、哨戒、攻撃、連絡輸送から救難にまで幅広く使われました。
ここに展示している飛行機は、当時極秘であった八木アンテナ(電探)を付けた日本に唯一現在した珍しい機体で 「水偵302」の表示があることから、福岡を離水、沖縄方面の探敵から帰途中燃料切れで不時着したものである。


(注釈:この飛行機は海軍のフロート付水上偵察機であって、ここ万世飛行場から出撃した特攻機ではありません。そもそも万世は陸軍です!)

 

(万世から出撃した特攻隊員達)

平和祈念館の2階には出撃した特攻隊員たちの直筆のメッセージ、制服、遺影、自らの血で決意を書き記した「血書」、遺品、などが多数展示されています。
遺影は、1945年( 昭和20年)4月3日の初出撃から順番に並べられていました(撮影禁止なので写真は撮影していません)。
それぞれの隊員が幼いこと、そして遺書の文章が素晴らしいこと。。1人1人の遺書を読んで涙が出てきました。
特攻を中止し、この方々が命を落とさず、生きて戦後日本の再建に尽力するようにするという選択はできなかったのでしょうか?

 

 (子犬を抱いた写真)

万世特攻祈念館には、特攻隊というとよく登場する有名な写真「子犬を抱いた少年兵」が、 展示されていました。

この写真は、昭和20年5月26日午後2時頃、出撃の2時間前に万世飛行場で撮影された
ものです。
この後、沖縄が天候不良のため26日の出撃は延期とされ翌5月27日早朝に出撃し散華しています。


彼らは第72振武隊所属の少年飛行兵5名の方々で
真ん中で子犬を抱く少年が荒木幸雄伍長、わずか17才。 さらに・・
前列左から、早川勉 伍長(18歳)、荒木幸雄 伍長(17歳)、千田孝正 伍長(18歳)。
後列左から、高橋要 伍長(18歳)、高橋峯好 伍長(17歳)。


出撃の3ヶ月後には戦争が終結しています。わずか20年に満たない人生でした。

 

(青空の白いハンカチ・・万世基地で働いていた方のお話)

おっさんは、今まで戦場に行った軍人や空襲や原爆に遭われた方などから生の声を聞いていますが、この万世基地で働いていた方にも話しを聞いています。
話しを伺ったのは2009年(平成21年)頃です。万世基地で特攻に出撃する兵士に別れの杯をくんでいた松尾さんという方でした。
松尾さんは、特攻で出撃する兵士とほぼ同じ年でしたが、学生時代に盲腸をこじらせた
関係で戦場に行くことはなく万世基地の事務や見回りなどの後方支援に回っていました。

戦争末期になると毎日のように特攻兵が万世から出撃し、松尾さんは彼らに別れの杯をかわしていました。命を捧げ出撃する特攻兵が数時間後にはもうこの世にいないと思うと手元が震え杯から酒がこぼれたことが何度もあるそうです。
松尾さんによると出撃した特攻兵は滑走路を離陸した後、旋回し 見送る松尾さん達の上空に飛来し、別れの挨拶として次々と機体から白いハンカチを落とし、目的地に向かったそうです。ですから、特攻基地上空はしばらくは特攻機が落とした白いハンカチが青空になかで舞っていたそうです。

そして、ある日、松尾さんは出撃する特攻兵に島田さんという幼なじみの方を発見し
声をかけます。しかし上官に叱咤されます。まさに特攻で出撃しようとする兵の気持ちが揺らぐことなく送り出すことを求められたからです。その島田さんも散華されました。

また、特攻隊の兵士が書く立派な遺書がありますが、松尾さんは当時は遺書のサンプルが数パターン有り、それをまねて書いた人も多く、自分の命を捧げるまだ20代前半の男子では、冷静にあのような文章を書ける人は少なかったとも話していました。

 

(屋外展示)

万世特攻平和祈念館の屋外にも展示物がありました。
特攻隊員がある像は。万世特攻慰霊碑「よろずよに」です。
説明によると象の隊員は東の方を向いていて、生まれ故郷を望んでいるそうです。 

 この万世特攻慰霊碑「よろずよに」の前では毎年、慰霊祭がとり行われています。

(三式戦飛燕のプロペラ)

三式戦闘機飛燕のプロペラも展示されていました。

飛燕は、万世飛行場では、特別攻撃としてではなく、第55飛行戦隊の所属機として配備されました。
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飛燕は東京の陸軍調布飛行場に配備され首都東京の防空を行った震天制空隊で知られています。


(営門跡)

 さらに足を伸ばすと県道20号線(南薩横断道路)沿いには万世陸軍航空基地の正門・
営門跡がありました。


武装した衛兵が、24時間立哨していた場所です。
ただ、表札も何も書いてありませんでした。

 

 【南さつま市観光協会公式HP 万世特攻平和祈念館】

 

 

<<万世特攻平和祈念館への行き方>>

車で行きましょう!
鹿児島市街地から車で約50分(駐車場もあります)

住所:鹿児島県南さつま市加世田高橋1955-3 0993-52-3979

9:00~17:00(入館は16:30まで)休館は、12/31、1/1

 

【入館料】
大人(高校生以上)310円
小人(小・中学生)210円
団体(20名以上)大人260円、小人150円

 

 

知覧のわずか15kmにある万世特攻基地、

ここから若者が日本のために出撃し散華されました。合掌