特攻基地慰霊の旅・・
祖国や故郷のために自らの命を捧げられた先輩方に対し感謝と追悼の想いを込め、鹿児島をおとずれ特攻基地に足を運びました。
今回紹介するのは日本で最も多く特攻隊員が飛び立った基地・海軍鹿屋基地です。
戦時中、鹿屋には3つの飛行場(笠野原・鹿屋・串良)がありましたが、なかでも鹿屋飛行場は海軍の主力基地でした。
1936年(昭和11年)4月1日に鹿屋に海軍鹿屋航空隊が開隊しました。
日米開戦の年となる1941年(昭和16年)の2月には、ここで真珠湾攻撃の作成計画が
練られた「鹿屋会談」が行われています。
戦局が悪化した1945年(昭和20年)の2月10日には、鹿屋基地に各基地の特別攻撃を
指揮する第五航空艦隊司令部が置かれました。
そして同年3月11日、鹿屋基地から初めて特別攻撃隊となる梓特別攻撃隊の銀河24機が出撃します。目指すは、ウルシー環礁の米海軍第58機動部隊。これは鹿屋から南南東におよそ2300kmで、片道9時間かかる飛行です。
この特攻でウルシー環礁にいた空母ランドルフが沈没しています。
ちなみに、梓部隊の「梓」は「梓弓」で、巫女が持つ邪悪を打ち払う弓のことです。
また3月21日には 人間爆弾桜花の神雷部隊が初出撃しています。
終戦までの間、鹿屋基地からは日本で最も多い908名が特攻隊員として出撃し亡くなられています。(ちなみに陸軍の知覧基地からは439名、海軍の国分〔鹿児島〕からは427名の方が散華されています。)
鹿屋基地は、戦後は海上自衛隊の鹿屋航空基地として使われています。
また鹿屋航空基地には資料館が隣接されています。
(鹿屋航空基地資料館)
鹿屋航空基地資料館の館内には日本海軍創設期からの貴重な資料が保管されています。
こちらが建物の外観です。看板が見当たりません。
入り口の左側には特攻隊員の像がありました。
ここ鹿屋は、日本で1番特攻隊が出撃した基地です。
1Fには、海上自衛隊の活動状況が紹介されています。
2Fで、まず目につくのは太平洋戦争初期に無敵を誇った日本海軍のエース機・零式艦上戦闘機五二型です。
この零戦は1991年(平成4年)に、鹿児島県の錦江湾と吹上浜の海から引き揚げられた
2機の零戦をもとに1機の零戦としたそうです。この零戦以外の資料は撮影禁止です。
その他、2階には鹿屋からとびたった特攻隊員の遺影や遺書などが展示されています。
鹿屋からは908名の20歳前後の若手が特攻作戦に出撃した、日本で1番多くの特攻隊が
出撃した基地です。その遺書・遺影の1つ1つを見て色々と考えさせられました。
(敷地には本物の飛行機などが!)
建物の敷地内には、様々な飛行機やヘリコプターが展示されています。
圧巻だったは、二式大型飛行艇で、これが大きくてびっくりしました!!
実際に使用された魚雷もありました。これも大きい!!
<<鹿屋航空基地資料館への行き方>>
鹿児島空港から空港バスで鹿屋バスセンターまで(約100分)さらに鹿屋バスセンターからバスで約5分、航空隊前から徒歩で約3分
住所:鹿児島県鹿屋市西原3丁目11-2
9時~17時(入館16時30分迄) 入場無料
休館日 12月29日から1月3日まで
日本で1番多くの特攻機が出撃した鹿屋。
祖国のために亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。