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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ネタバレあらすじ 第41話「義盛、お前に罪はない」

 

鎌倉殿の13人 41話、
和田合戦を取り上げた「義盛 お前に罪はない」は、

世帯平均視聴率は、前回と同じく11・3%でした。
ではストーリーをみていきましょう。


(間に合わず・・・)
前回、実朝が中に入り義時との戦を回避したかに見えた和田義盛ですが、館に戻ると兵が出陣したことを知ります。時すでに遅し。。間に合わず!!・・・。

義盛は、このままでは、実朝、尼御台、義時との約束を反故にしたことになり、だまし討ちになるのでなんとか戦を回避しようと動きます。

しかし、息子たちは「今、北条をたたかないと向こうが攻めてくる」と言い応じません。
結局、和田義盛は「この戦、敵はあくまで北条だ。鎌倉殿に弓を引くものではない。
そこだけは、キモに命じておいてくれ。鎌倉殿に指一本でも触れてみろ。許さないぞ。」といい義時との対決を決意します。
戦を決心した義盛ですが、敵は、鎌倉殿ではなく、あくまでも北条だと皆に釘をさしたのです。

1213年5月に起きた鎌倉最大の合戦・和田合戦=和田義盛の乱です。
タイミングが悪いというか、なんというか・・ちょっとしたズレがなければ、この戦は避けることができたはずなのに。。。

 
(三浦の寝返り)

義時は、和平に合意したはずの和田勢が攻めてきた知らせを聞き、後悔し怒ります。

 

この戦いで重要なのが、三浦義村がどちらにつくかです。和田義盛と義村は従兄弟同士ですが、北条と義村の絆も固いです。

義盛は義村に「裏切るなら、早いうちに裏切ってほしいんだ。ここぞって時に裏切られたんじゃたまったもんじゃない。通じてるんだろ?」と言い、返事に詰まる義村を見て「義時と義村は通じている」と察します。
義村は、今回の戦に関して起請文を書き、燃やして飲んでいますが、これを吐き出すことで無効とし、八田、長沼宗政ととも和田館から出て、北条につきます。

 

(戦が始まる)

三浦勢と決別した義盛は、義秀、義重本隊を指揮し鎌倉へと出陣します。

和田勢は、1つは大江広元の館、1つは義時の館、そして最後は御所と3手に別れて
鎌倉を攻めます。

一方、幕府軍には、和田の元を去った三浦義村が合流し、義時に「和田勢は、3か所からここを狙ってくるつもりだ。向こうが狙っているのは、お前だ。俺を信じるか信じないかは、お前の勝手だ。ただ、俺を信じなければお前は間違いなく死ぬ。」と伝えます。

義時は、この義村の言葉を信じて、御所に行き鎌倉殿を守ることを決めます。
そして三浦は南門、時房は北門の守りを、泰時は西門を守ります。

義時が御所に駆け込むと、実朝と千世、三善康信、阿野時元たちは、納屋に身を隠していました。
実朝は「戦にはならぬのではなかったのか」と義時に言うと義時は「義盛に謀られました」と応えます。

義時は、実朝を西門から逃がし鶴岡八幡宮への逃そうとします。

 

その時、西門を任された泰時は酒を飲み泥酔しています。
泰時が、どうしても起きないため、妻の初が桶に水をくんで泰時にかけようやく目が
覚めます。

 

(文官 広元の見事な殺陣) 

 義盛の軍勢が南門から進軍し、三浦勢と大乱戦。同時に西門では別の和田勢が押し
寄せ、泰時たちと戦闘中です。
実朝を連れた義時一行は鶴岡八幡宮に向かいました。鶴岡八幡宮に到着した後、御所に火が放たれたのが見えます。御所に火をかける。。。これはまずいですね。

実朝は、母政子から譲り受けた、鎌倉殿の証、髑髏を忘れた事に気がつきます。
そこで実朝の代わりに、大江広元が御所に帰って髑髏を取ってきました。
このときの広元の殺陣が凄く良い!!文官のハズですが、どうしてどうして剣術もたいしたもんです。

 
(鎌倉殿の御教書)

戦は深夜まで及び、和田勢はいったん由比ガ浜まで退却し態勢を立て直します。
西相模の御家人たちが鎌倉に向かっているので、援軍が到着するまで、ここで持ちこたえようという作戦です。
由比ガ浜には義盛の妻の巴御前も来ていました。義盛は巴御前に「生き延びろ、生き延びて鎌倉の行く末を見届けろ!それがお前の役目だ。」と言います。

  

和田の勢いは素晴らしく、戦はどんどん広がります。もし西相模の御家人たちが和田に味方すると北条は負けます。

 

そこで、義時は勝つために案を出します。

和田は、北条に兵を挙げております。鎌倉殿が御教書を送ると和田が鎌倉殿に弓を引いたことになるので、鎌倉殿の名で御教書を送ろうというのです。

御教書(みぎょうしょ)とは、平安時代後期から室町時代にかけて、三位以上及びそれに准じる地位にある人の部下が主の意を受けて出した文書のことです。

 

しかし、康信は、御教書を出せば和田の敵が、北条から実朝に変わってしまう可能性があると言い、それを聞いた実朝も花印を押すことをためらいます。
しかし、義時の「和田は、御所に攻め込み火をつけた。これを謀反と言わず、なんというのか。このままでは、戦死者がどんどん増えます。それを止めることができるのは、鎌倉殿だけなのです。」という言葉に押され、実朝は、御教書に花印を押しました。

これでは和田に加勢する御家人は現れません。

こうして西相模の御家人たちが、幕府側についたことで和田の勢いは弱まります。

 

(追い詰められる和田)

 翌朝、泰時ら幕府勢と、和田勢とが戦います。和田軍は弓矢を次々と射てきます。
これに対し泰時も塀や板戸を盾に利用し反撃します。

やがて各地で義盛は徐々に後退し追い詰められていきます。

義時は実朝に陣頭指揮をとる事を要請し、戦場に呼びます。これに対し、実朝は義盛の命だけはとらぬと言う条件で了承します。

 

戦場で対峙した実朝と義盛のやりとりです。

実朝「勝敗は決した。これ以上の戦いは無用である。おとなしく降参せよ」

義盛「俺はウリン(=実朝)が憎くて、こんなことをやったんじゃねえんだ」

実朝「分かっている。義盛、おまえに罪はない。これからも私に力を貸してくれ。私にはおまえがいるのだ」

義盛「もったいのお、ございます。そのお言葉を聞けただけで満足です。みんな、ここまでじゃ。聞いたか? これほどまでに鎌倉殿と心が通じ合った御家人が他にいたか? 我こそは鎌倉随一の忠臣じゃ。みんな、胸を張れ!」

義盛は、涙を流し、そして、兵を解きます。

その瞬間、義時が三浦義村に合図をして、義村が「放て!」と命じて義盛に向かって
一斉に矢が放たれます。無数の矢が義盛の身体を次々と突き刺します。
なんとひどい!!

義盛は「ウリン」とつぶやき絶命します。
和田義盛殺害!!実朝の約束は反故にされました!


実朝は義盛に駆け寄ろうとしましたが、泰時に止められます。

義時は静かに「お分かりか。これが鎌倉殿に取り入ろうとする者の末路にござる」と
言い放ちます。冷酷です。義時の非情さは怖い。
しかし、一瞬、義時が涙をこらえ苦しい表情でその場を去ります。このとき義時の胸に去来したものは何??

こうして和田合戦が終わります。

 

(心を許せる者はおらぬ)

義時は実朝に「人は力を持つ者を恐れます。恐れることで、人はまとまります。あなたの父上から学んだことです。」と告げます。
それを聞いた、実朝は「こたびのことで考えを改めた。私は父上や兄上のように強くない。だから、強い人の力を借りるようにする。そうすれば、鎌倉に血が流れない。
万事、西のお方(後鳥羽上皇)にお考えを伺っていく。心を許せる者は、この鎌倉に、おらぬ」と言います。

実朝は、妻のルートで京都の後鳥羽上皇を頼り、平安な世の中を作ろうと決心します。

この後、実朝は後鳥羽上皇に和歌を送りました。

山はさけ 海はあせなむ世なりとも 君にふた心 わがあらめやも
訳:山が裂け海があせ干上がってしまうような世の中になっても、私のあなたに対する
忠誠心は二心なく変わることがありません。

 

鎌倉では、2代執権・北条義時は、義盛が担当していた侍別当にも就任します。これで義時は、鎌倉の権力を一心に集めることになります。北条政権の盤石化です。

そして、義盛が亡くなって18日が経過した5月21日、鎌倉に大きな地震がおきました。

今回も、裏切り、だまし・・・後味が悪いものでした。。。

義時の冷酷さ・非常さがもうイヤーーな感じですねええ。