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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ネタバレあらすじ 第42話「夢のゆくえ」

鎌倉殿の13人第42回「夢のゆくえ」の世帯平均視聴率は11・3%でした。
ではストーリーを見ていきましょう。

 

(源氏の世を!)

和田合戦での経験から鎌倉殿の源実朝は、後白河法皇を頼っていくことを決めます。

今回はその和田合戦から1年後の1214年6月から始まります。

源実朝の夢に、後白河法皇が現れ、北条義時を排除し、一緒に日本を治めていこうといいます。実朝も「父上が作られたこの鎌倉を、源氏の手に取り戻す」と決意します。

しかし、鎌倉での政の中心は、依然、義時、三浦義村大江広元などが中心で実朝は蚊帳の外です。
実朝は、自分の味方として義時の嫡男・泰時を評議に加わらせますが、そう簡単には
うまくいきません。


一方、義時は、出世欲が非常に強い後妻のえのすすめもあり執権を名乗ることにします。

 
聖徳太子

実朝は、日照りが続き不作になったので将軍の領地だけ年貢を3の1にします。しかし伊豆から将軍家領地だけ年貢が1/3になったことことに不公平だと不満の声があがります。
実朝は自分の徳が足りないことが原因だと考え、自室に聖徳太子肖像画をはり聖徳太子のようになろうと願います。
この聖徳太子肖像画は、後白河法皇にもらったものでした。

 

(夢が現実に?)

2年後の1216年、源仲章が宋の国の匠、陳和卿(ちんなけい)を鎌倉に連れてきました。この人は東大寺の仏像を再建した人物です。

和卿は実朝とは初対面でしたが、実朝を見ていきなり涙ぐみます。

そして前世では実朝が宋の国で長老で、陳和卿はその門弟であったのだと言うのです。

 それを聞いて実朝は驚きます。というのは実朝は夢を日記に記していますが、「以前夢で、そなたは、私に同じことを言った。」と言い、その日記を見せました。夢が現実となったです、おお!これを奇蹟と言わずして何というか!!

ファーストコンタクトですっかり実朝の心の中に入り込んだ陳和卿は、実朝に大きな船を作り中国の宋と交易を行うことをアドバイスします。
「大きな船を造りましょう。それで宋へ渡り交易を行うのです」
聖徳太子様もかつて隋へ使者を送られました」

実朝は、すぐに大きな船を作るように命じます。

 

(しっかりしなさい!) 

後白河法皇の寵愛を受けていた丹後局が、政子を訪ねてきました。
政子が「子供を3人失くし、心が折れそうな時がある」と弱音を吐くと
「そんな甘えたことを言ってるのですか。覚悟を決めるのです。源頼朝と結ばれたというのはそういうこと。人並みの人生など望んではなりませぬ」と叱咤激励します。

 
(夢の話は演出)

11月、陳和卿と八田が協力をして船作りが始まります。
しかし、船作りは御家人たちにとっては労働的にも経済的にも重い負担です。

三浦義村は「それだけ大きな船となれば、鎌倉殿が力を示すことになる。これは北条にとっては、余計だな。」といいます。

それを聞いた義時は「つまらなぬことを申すな。御家人たちの負担を案じておる。」と応えます。

泰時は、船作りを鎌倉殿に勧めた陳和卿がいかがわしいとにらみます。
「和卿殿は、鎌倉殿の夢を当て信頼をえましたが、それは、あの部屋に入れるものなら誰でも日記を見ることができ、それを基に話しを作ることが可能です。」と言い、陳和卿を連れてきた仲章ならば、事前に実朝の日記を見ることができるので、あれは芝居ではないかと推測します。
源仲章の背後に後白河法皇の影が見えたのです。

京の後白河法皇は、鎌倉で船の建築が始まったことを知り、これで実朝の力が増し、それに対して北条の力が落ちると喜びます。


(政子の皮肉) 

京の法皇の言うことを聞く鎌倉殿に義時は面白くありません。尼御台・政子のところに向かいます。

義時は「これ以上、西を第一にすれば鎌倉中の御家人を敵に回します。あのお方に、頼家さまのようになってほしくないのです。」と告げます。
それを聞いた政子は「あなたの言うことを聞かなければ、実朝も頼家のようになると言いたいのね。」と皮肉をいいます。

(母の決断)

「建造中の船が完成したら、あの船で海を渡りたい」と実朝は言い、そばにいた泰時と妻・千世とともに海をわたり宋へ行く夢を語ります。

しかし実朝のもとに義時、政子、時房、泰時、三善康信が集まります。

そして、時房が切り出します「船の建造を中止していただきたいです。御家人から不満がでております。」

実朝は、人心を掴むにはあの船に乗って、育王山へ行き功徳を積むしかないと考えています。

しかし義時は「上皇様にそそのかされて作る船など必要ござらん。」と強く言い切ります。

結局、実朝は不満を抱きながら船作り中止案に妥協します。

泰時がとりなして、船に尽力してくれた御家人の名前を刻むように提案します。

優しい康信は必死に政子にいいます。「どうか、船の建造は続けさせてください!鎌倉殿の思いがこもっておるのです。尼御台!」

政子は、船の建造をどうするかの結論は出さず大江広元に意見を聞きました。
政子と広元、、良い感じなんですよねえ。。

 

広元はこう言います「尼御台がお決めください。あなたが頼朝さまの妻であったことは変わりありません。あのお方にかわって鎌倉を引っ張っていくのは、あなたです。」と。

それを受け政子は、船を継続して作ることを決定します。

 

(進水せず)

1217年4月17日、実朝念願の船が完成し、実朝や義時、政子たちが参加し船の進水が行われようとしています。

 船作りの中心となった八田知家はこの船作りを最後に隠居を考えていました。
実朝の期待や知家の思いが詰まった船。。

しかし、船を進水させようと船の支えを外したところ、船が重みで浜にめりこんでしまい動かなくなりました。
下人たちが必死に船を動かそうとしますが全く動きません。
あわてふためく中、和卿が図面を見ると数値が大きく間違っていることがわかりました。
この光景を実朝は呆然とながめていました。

義時は「重さの勘定を誤ったか。」と漏らし、時房らと帰りました。
図面の数値が違うのは、事前に時房とトウが忍び込んで、筆で書き足したからでした。夢を部位壊すなんてひどい!!

実衣、三浦義村らも次々に去っていきます。

恥をかいてしまい非常に嫌な思いをした実朝・・。膝をついて落胆した実朝を母・政子が背後からそっと抱きしめます。母の愛。。


(揺るぎない主となる手)

その数日後、落ち込んでいる息子に政子は言います。
「これぐらいでくじけてどうするの。やるなら、とことんやりなさい。自分の政がしたければ、もっと力をつけなさい。母は、考えました。あなたが揺るぎない主となるために。」と言い、実朝が力をつけるための作戦を授けます。
その「揺るぎない主となる手」とは。。。

実朝は、義時、時房、泰時、政子、実衣を集めこう言います。「私は、家督をゆずる。外から養子をとって、わしは大御所になる。」と言います。

それを聞いた義時は「お待ちください。源氏の嫡流には公暁殿がおられます。鎌倉殿は代々、源氏の嫡流が後を継いでおります。」と言います。

実朝が「公暁は、仏門におる。源氏の嫡流にするというもの文書には残っておらぬ。
朝廷の血筋で高貴な方を養子にもらい受ける。」と言うと義時は「鎌倉殿とは、武士の頂点に君臨するものでございます。このようなことを一人で決めるのは、おかしいです。」と応えます。
このやりとりに尼御台の政子は「鎌倉殿の好きにさせてあげましょう。すぐに取りかかりなさい。」と言います。

これを聞いた義時は、「鎌倉殿は、源氏と北条の血のあるものが受け継いできました。これからも、そうあるべきです。」と言います。

すると政子は「北条がなんですか。小四郎、あなたが言ったんですよ。北条あっての
鎌倉ではなく、鎌倉あっての北条だと。まずは鎌倉殿のことを考えたらどう。」と言います。

狼狽する義時に息子の泰時も「執権殿は、御自分の思い通りに動かしたいだけなのです。鎌倉は、父上一人のものではない。」と言います。

政子は「実現すれば、これ以上の喜びはないわ。」と言います。

源氏と北条の血を引く鎌倉殿を自分の代で終わらせようという実朝の提案に政子も泰時も賛同し義時1人が孤立します。

恥をかかされた義時は「このままではすまさん」と言います。

実朝の嘆願は、源仲章によって後鳥羽上皇に届けられました。

 

(その後の時政)

ある日、泰時が伊豆に行っておじいさんの時政を訪ねました。
孫の訪問を喜んだ時政は、りくが京都に行ったあとに、ちゃっかり若い女性をもらっていました。なんだかもう!!
その後、時政は78歳でなくなりました。鎌倉を追われてから10年後でした。


(嵐の前触れ)
そして、京都から6年ぶりに公暁が帰ってきました。公暁は、源実朝の兄の源頼家
正妻の子供で出家して京都で修行していました。公暁は、父親の頼家が北条家の人間によって鎌倉殿の座から追われ命を奪われたことを憎んでいます。
鎌倉がまた大荒れします。。、