2022年(令和4年)の
大河ドラマ
「鎌倉殿の13人」最終回です。
最終回の平均世帯視聴率は関東で14・8%でした。
また全48回の期間平均世帯視聴率が関東地区で12・7%、関西地区で11・7%でした。
では最終回のストーリーを見て行きましょう。
(総大将は北条泰時)
上皇は全国に義時追討を命じ、これを受けて鎌倉は徹底抗戦を選びます。承久の乱の勃発です。上皇に逆らうことで鎌倉方は朝敵になりますが、政子の演説で鎌倉は一丸となります。
朝廷の戦が始まり、二階堂行政が、孫娘で義時の妻の のえに、「どうして止めなかったのか!」と怒鳴ります。のえは「よいではないですか。太郎や次郎にもしものことがあれば北条の跡取りは我が息子だ」と言います。しかし二階堂は「ばかもん! そのころは鎌倉は灰になっておるわ!」とさらに怒鳴ります。
この のえと言う女性、まあ根性が悪いというか何んと言うか・・・。
でも、ここが伏線になるんですよね。
幕府では、三善康信が「時を無駄にせず、一刻も早く出陣を」と提案し、政子が同意しました。
泰時は、父・義時に総大将となるよう言われますが、自分に総大将が務まるのか?自分の名前で兵が集まるのか戸惑います。
そんな泰時に義時は「山木攻め」のことを話します。山木攻めは、頼朝が挙兵し、最初に攻め込んだ戦いの事で、その時は24人でした。それを引き合いに出し今回は「18人で立ち上がれ」と命じます。
「私を入れて19人ですか」と泰時が尋ねると、義時は「お前を入れて18人だ」と。なんと!!
それを聞いた泰時は源頼朝のように兵が集まるのかと不安です。
義時が一人で縁側にいると、のえが今回の朝廷との戦に関して、義時が一言も相談なかったことに対し「執権の妻がこんな大事なことを人から聞くってどういうこと?」と
文句をいいます。
野心満々ののえと旦那の義時、微妙な隙間風を感じます。
一方、出陣の準備を整えていた三浦義村は、隙を見ては木曽川の手前で背後から攻め、泰時の首を後鳥羽上皇への手土産にして京都入りを果たす考えです。おいおい!!
(筏作戦で宇治川を渡る)
今日に向かう泰時の兵の数は、1万を超えました。
京都の御所には、義時の書状が届き、そこには「東海道、東山道、北陸道を19万の坂東武者が上洛する。西国武士との合戦を御簾の筋隅からご覧あれ。」と書かれていました。
幕府軍19万に対し、後鳥羽院が動かせる兵数は、藤原秀康が率いる1万余り。これでは戦う前から勝負は決まっています。
6月5日――北条泰時は木曽川を越え、宇治川を越え京都へ向かう勢いです。
幕府首脳は平等院で作戦会議を行います。その席で平盛綱があるアイディアを出します。
それは、和田合戦の時に用いた板です。このとき、和田勢の弓矢の集中攻撃に対し鎌倉軍は民家を壊し、その壁や扉を盾にして盾にして進軍し勝利しました。
今回は同じように筏を作り川を渡る作戦です。
しかし、この作戦で水中で筏を押す人は、水中に入るために甲冑を脱がねばならず、そこを矢に狙われたら、非常に危険です。死ぬ可能性もあります。
そして総大将・北条泰時は、この作戦を決行します。
宇治川を筏で渡る鎌倉幕府軍、しかも、盛綱が矢に当たってしまいました。
それを見て駆け寄ろうとする泰時に対し、盛綱が「お前は総大将だ! 兵一人がやられたくらいでたじろぐな! 俺に構わず行け!」と言います、いい言葉です。
筏で宇治川を渡る鎌倉幕府軍に対し上皇軍の藤原秀康が迎え撃ちますが、突破されます。
(上皇出陣せず)
さて、タイミングを見ては寝返ることも考えていた三浦義村は、長沼宗政から、幕府軍が勝ちそうだ、その後どうする?と尋ねられ、上皇が出てくれば戦の流れは一気に変わるとまだまだ望みを捨てません。なんと姑息な・・。
一方、京都では、戦で勝つつもりでいた後鳥羽上皇は負け戦に直面します。
そこへ藤原秀康と三浦胤義がやってきて「後鳥羽院が陣頭に立てば士気があがる!」として出陣を促します。
後鳥羽院も自ら立ちあがろうとしますが、藤原兼子が上皇自らが戦に出るなど聞いたことがないと言い、おじいさんの後白河法皇の話も持ち出したため、上皇は出陣を取りやめます。
こうして京都に攻め上った北条時房は、後鳥羽院が対面します。後鳥羽上皇は「自分を担ぎ上げた奸賊どもをよう滅ぼした!義時にそこのところを話して欲しい、お前だけが頼りだ」と都合がいいように話をします。なんとまあ・・
(隠岐に流される)
後日、鎌倉からの御沙汰を受け取った泰時が、後鳥羽院に隠岐への島流しを告げます。しかも、移動には罪人を乗せる逆輿(さかごし)に乗せるという屈辱です。
剃髪し、逆輿に乗ろうとする後鳥羽院にあの怪僧・文覚が近づきます。ここで文覚と出会うとは!!
後鳥羽帝は、隠岐に流された後、死ぬまで隠岐にいました。隠岐の島には後鳥羽上皇が仮御所にして、最期は葬られた源福寺があり、その跡には1939年(昭和14年)に法皇の崩御700年に執り行われた「後鳥羽天皇七百年祭」でここに隠岐神社が建てられました。神社境内には後鳥羽上皇の歌碑があり、北側には後鳥羽院の資料館が建てられています。
承久の乱での鎌倉幕府軍総大将の泰時は、この上皇の処分に不安を抱き「我らは帝の一族を流罪にした大悪人になってしまいました」と心配します。
その泰時に父・義時は「大悪人なのは私だ。お前たちではない」と言います。
(義時倒れる)
さらに泰時は京都でりくとあった話をします。
りくは、泰時のおばあさんにあたります。
りくの娘の菊は公卿の藤原国通に嫁いでいました。
りくの夫であり、同時に泰時の祖父でもあった北条時政が伊豆に戻り、9年ほど前に亡くなり、その近くには面倒を見てくれる若い女性が傍にいたことを知らせます。
京都にいたりくさんは相変わらずだったと、泰時と時房が話していると、突然、義時が倒れます。
そのとき、政子と実衣は子どもたちにお菓子や果物をあげていました。
そして、やってきたへトウにこの子どもたちに武芸を教えるように伝えます。
そこに「兄上が大変だ!」と時房が張り仕込んできました。
義時は、駆け付けた姉妹にめまいがしただけで大丈夫だと告げます。
(謎の液体)
そこに義時の妻・のえがやってきて義時に何かを飲ませようとします。
実衣が、「変なにおいがする、この液体は何なのか?」 というと、のえは、京都の知り合いが送ってきた薬草を煎じたものだと答えます。そして義時は、その薬を飲みほします。。
義時は、この薬を飲み始めてから具合が悪くなっているようです。
(新しい世)
後鳥羽上皇を隠岐に流しましたが、大江広元によると、廃位にされた上皇の血を引く先帝の復権にむけての動きがあり、もしこれが成功すると上皇もまた復権する可能性があるというのです。
そして広元は「災いの芽は摘むのみ」と扇で己の首を叩きます。この人結構冷酷です。
しかし、泰時は「お待ちください。幼き先帝の命まで奪うおつもりなのですか?そのような世ではないことがどうしてわからぬのですか。そのようなこと断じて許されませぬ。都のことは私が決めます。父上は口出し無用。新しい世をつくるのは私です」と言います。
そう去っていく泰時を時房が追いかけます。
西国の所領を東の御家人が手に入れ、土地の者が困り、争いになりそうだと。
そこで泰時は「西の者たちの不満は、私の耳にも入っています。それに関しては、きちんと決まりを作ろうと考えている。やっていいことと、いけないことをはっきりと示す」といい北条時房も「とてもいい!今、新しい世が来る音がした」と応えます。
(木像)
運慶が義時に頼まれていた仏像が完成しました。しかしそれはへんな顔のいびつな仏像で、義時は大不満です。運慶を追い払い、その仏像を刀で切ろうとしたところ、その場に倒れ込みました。
寝込んだ義時を診察した医者は、麻の毒がこの原因だと言い、毒消しを届けさせようと立ち去ります。
毒を盛られたことを悟った義時が、のえに問い詰めると、最初はしらを切りますが、
最後は「バレちゃった」と認めます。
のえは息子・政村に家督を継がせたいためにそうしたと言います。
八重は頼朝に逆らった伊東の娘。次の妻の比奈は北条に敵対し滅ぼされた比企の娘。
そんな女たちが産んだ息子たちを認ず、自分が生んだ政村を北条家の嫡男にと企んでいました。
義時は「もっと早くお前の本性を見抜くべきだった」と後悔しますが、のえは「あなたには無理。私のことなど少しも、少しも見ていなかったから。だからこんなことになったのよ」とこたえます。
義時は、執権としての威信に傷がつくので離縁はしないが、「二度と私の前に現れるな」と追放します。
のえは「死に際は大好きなお姉さまにみとってもらいなさい。それに私に頼まれ、毒を手に入れてくださったのは、あなたの盟友、三浦平六殿。夫に死んで欲しいと相談したらすぐ手に入れてくれた。頼りになるお方だわ」――。と捨てぜりふをし去って行きます。
しかし、のえ=伊賀の方は、義時と一緒にお墓に眠っています。うーん不思議。
(姉妹の会話)
政子と妹の実衣が顔を合わせました。実衣は政子に「姉上は、近頃は政に首は突っ込まないの?姉上は一度も偉くなりたいと思わなかったのに、姉上は偉くなって。狙ってた人たちはみんないなくなった。皮肉な話」と言います。
すると政子は「あなたは本気で尼御台になろうとしていたの」と聞き、実衣は、「全成殿の血筋を絶やしたくなかった。でも、今思えば、そうねえ、一言で言い表すならば、どうかしてました」と言います。
政子が「人にはそれぞれ身の程というものがある」と言うと実衣は「誰だってね、一生に一度は人の上に立ってみたいと思いたくなるものなの。姉上には分からないようですけど」と反論しますが、何となく和やかな雰囲気でした。
(義時と義村)
夜、義時が義村に酒を勧めています。
のえが京都から手に入れた薬湯であり、酒に入れて飲むとうまいと勧めますが義村は飲みません。
義時は、長沼宗政からの話を持ち出し、裏切るつもりだったらしいなあと問うと義村は、俺が裏切らなかったから勝てたといいます。
義時はもう1度義村に酒を勧めます、そして義村が酒を飲み干しました。この席で三浦義村は義時に対するジェラシーを吐き出し最終的には今まで同様、北条とともに鎌倉をさえることを誓います。この2人何なんだか・
(武士を中心とした政)
泰時は自宅で妻の初に、京都に戻り、時房とともに西国に目を光らせると伝えます。
泰時たちの酒宴の席には「承久の乱」で負傷した平盛綱も無事な姿でいました。盛綱は「私は、いつも誰かに守られているのです」と言い、時房は「いいか、皆。もはや朝廷を頼る世ではない。これからは、武士を中心とした政の形を、長く続くものにする。その中心にいるのが我ら北条なんだ。よろしく頼むぞ」と言います。
初が「さっきから何飲んでるんですか」と尋ねると、時房は「兄上の部屋からそっともらってきた。酒じゃないのかな、これ。うがいしてきます」。それは、のえが義時に勧めた、京の知り合いが送ってきたという「薬草を煎じたもの」だったのです。
(御成敗式目)
「ひいふうみい! 刺す! 」
「ひいふうみい! 喉元刺す」
トウが孤児たちに武術を教えています。よく見ると孤児たちは13人。
泰時は初にある書き物を見せます。
そこには学のない御家人たちも読める易しい言葉で、武士が守るべき定めを書きしめしていました。
これが1232年に発表された御成敗式目につながります。この御成敗式目は、鎌倉時代以後も廃止されずに、改良を加えながら江戸時代で影響を持ちます。
(別れ)
政子が義時の見舞いに訪れ、姉と弟でこれまでの鎌倉を振り返ります。
政子は「たまに考えるの。この先の人はわたくしたちのことをどう思うのか。あなたは上皇様を島流しにした大悪人。わたくしは身内を追いやって、尼将軍に上り詰めた稀代の悪女」それを聞いた義時は、「血が流れすぎました。頼朝様が亡くなってから、何人が死んでいったか。梶原殿、全成殿、比企殿、仁田殿、頼家様、畠山重忠、稲毛殿、平賀殿、和田殿、仲章殿、実朝様、公暁殿、時元殿。これだけで13。顔も悪くなる」。
この義時の会話で政子は頼家の死に疑問を抱き、義時はこれまで政子に隠していた2代鎌倉殿・源頼家の死の真相を打ち明けます。
姉弟の会話が終わると義時は、体調がよくないので毒消し薬を取ってほしいと頼みます。「私にはまだやらねばらぬことがある。隠岐の上皇様の血を引く帝が、返り咲こうとしている。何とかしなくては。この世の怒りと呪いをすべて抱えて、私は地獄へ持っていく。太郎のためです。私の名が汚れる分だけ、北条泰時の名が輝く」と言います。政子は「そんなことしなくても、太郎はきちんと新しい鎌倉をつくってくれる。私達は、長く生きすぎたのかもしれない」と言い毒消し薬の瓶を逆さにし、薬を床にこぼします。まさかの行為!!
義時は「私は、まだ死ねん!」と言い力を振り絞って立ち上がろうとします。しかしバランスを崩して倒れます。そして床に落ちた薬を舐めようとしますが、政子がそれを袖で拭いてしまいます。
そしてこう言います。「太郎は賢い子。頼家やあなたができなかったことを、あの子が成し遂げてくれます。北条泰時を信じましょう。賢い八重さんの息子」
義時が「確かにあれを見ていると八重を思い出すことが」と言うと政子は「でもね、もっと似ている人がいます。あなたよ」
義時は「姉上、あれを太郎に」と部屋の隅にある源頼朝の形見でる小さな観音像(髻観音)を指さします。
政子は、その髻観音を手に、義時に一歩近寄り、「必ず渡します」と言います。
苦しみ絶命しようとする義時。。政子は「ご苦労さまでした…小四郎」と言い弟の顔を撫でます。そして義時は静かに62年の生涯に幕を閉じます。
うーん、この終わり方!!なんとも後味の悪い終わり方です。
なんだああ
また、私としては前半あれだけ話題をさらったあの男に、回想シーンでもいいので登場して欲しかったなあ。
オープニングにテロップでその名前が出ただけで視聴者を震撼させた アサシン善児を。アサシンの全活躍は下をクリックして御覧下さい。
鎌倉幕府関係の名所は1日で行けますので、下を参考にして下さい。
こうして2022年(令和4年)の
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は完了。
面白かったです。