九州初のビール会社・帝国麦酒。
その醸造棟が建設から100年たった今でも残っています。
その内部は年に2回一般公開されます。
その一般公開に参加し貴重な内部を見てきました。
(100年以上も前の赤レンガの建物)
JR門司駅から海岸に向かい歩くと赤レンガの建物があります。
ここ一体は、かつて帝国麦酒門司工場でした。
(九州初の本格的麦酒工場・帝国麦酒)
国内のビール需要が伸び始めた1912年(明治45年)、福岡県北九州の門司にあった合資会社・九州興業仲介所代表社員の山田弥八郎らが、ビール会社の設立を画策します。
そして当時、門司・大里で製糖・製粉などの事業を展開していた総合商社の鈴木商店(本社・神戸市)の援助を受け、九州最初の本格的ビール会社・帝国麦酒(株)が誕生します。
【帝国麦酒工場絵葉書(明治45年) 引用:帝国麦酒工場絵葉書(明治45年)|鈴木商店写真館|鈴木商店記念館 (suzukishoten-museum.com)】
1913年(大正2年)4月に帝国麦酒㈱工場が竣工し、醸造を開始し、7月に「サクラビール」が発表されます。
発売の翌年1914年(大正3年)7月には、第一次世界大戦が勃発し、ヨーロッパからの
ビールの輸出が途絶えたため、サクラビールの需要が増えます。
門司には、国際港の門司港があり、また鹿児島本線もある交通の要所であることから、ここからアジア、アフリカ、北米など世界各国へ輸出が拡大します。
そして、1916年(大正5年)には、パナマ平和博覧会で、金賞を受賞するなど世界で通用する一流ブランドに成長します。
そして大正期のビール業界では、大日本麦酒、麒麟麦酒に次ぐ第三位のシェア(10%)を占めるまでに発展します。
【帝国麦酒ポスター 引用:帝国麦酒ポスター|鈴木商店写真館|鈴木商店記念館 (suzukishoten-museum.com)】
下は1925年(大正14年)の帝国麦酒を描いた絵ハガキです。大工場へと発展しているのがわかります。
【帝国麦酒絵葉書(大正14年) 引用:帝国麦酒絵葉書(大正14年)|鈴木商店写真館|鈴木商店記念館 (suzukishoten-museum.com) 】
1927年(昭和2年)4月5日、第一次大戦終了後の不況と関東大震災の影響で鈴木商店は
事業停止・清算に追い込ます。しかし、帝国麦酒は存続し、合併、分割を繰り替えし「桜麦酒」→「大日本麦酒」→「日本麦酒」→「サッポロビール」と社名変更し2000年(平成12年)までサッポロビールの九州工場として稼働していました。
(帝国麦酒醸造棟内部に入る!)
さて、 この帝国麦酒の醸造棟は、1年に2回、ガイド付きで内部が無料公開されます。
今回、見てきました。
1923年(大正2年)にできた赤レンガの醸造棟は7階建てで建築面積 約1211.73㎡、 延床面積3029.33㎡、2000年(平成12年)度まで醸造所として稼動していました。
仕込み室です。
こちらは、ホップを落としていた機械です。
こちらは米粉やコーンを落としていた機械。
麦汁タンク
手前に見えるのは糖化釜です。
大変貴重な戦前期のドイツ製の搾り機がありました。
上の部分に麻袋をかけ、手動で圧縮して搾ります。
しぼったものを下にある蛇口で出します。
この機械には、ドイツ語の文字が。
アップにすると・・
こちらにも・・
工具をかける場所には、どこに何をかければいいか絵でわかるように工夫されていました。
この大きなタンクは、熟成タンク
4つありました。1968年(昭和43年)まで使用されていたそうです。
このタンクで小瓶で880万本のビールができるそうです。
【北九州市門司麦酒煉瓦館HP】
<<帝国麦酒への行き方>>
JR門司駅から海岸方面へ徒歩3分程度
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100年以上まえ、世界に愛されたサクラビール、
それを作っていた
帝国麦酒の赤レンガの建物が今もあり
内部も公開されます。
こういう資源は大事にし、語り伝えたいです。