どうする家康、第8話「守るべきもの」
世帯平均視聴率が11・8%で前回から0・3ポイント減です。
1564年に三河一向一揆を鎮圧した家康23才の時の話です。家康の家臣団からは嫌われ、馬鹿にされていた本多正信の、つらい過去がわかりなかなか味がありました。では、あらすじを見ていきましょう。
(人間不信でひきこもる家康)
本證寺の一向宗についた軍師は、家康の身内のハズの本多正信でした。本多正信は幼い頃に辛いことを体験し、世の中の理不尽を感じていたのです。
一方、岡崎にいる家康は。「裏切者はまだ近しいご家臣にも」と言い残し、息を引き取った家臣・土屋長吉重治の言葉に人間不信を感じ家臣を誰も信じられなくなってしまい引きこもります。
家康がしっかりしないので家臣たちの心が揺れてしまい士気もさがっています。
この状況に鳥居忠吉が引きこもり中の家康を訪れます。この席で、「たとえ裏切られても信じる」のか、あるいは「疑いがある者を片っ端に切り捨てる」かの二つに一つしか道がないと進言します。
その言葉に、家康は家臣達の前に姿を見せ「お前たちについてこいとはいわん。主君を選ぶのはお前たちじゃ。好きな主を選ぶとよい。わしは、お前たちを信じる。お供したい者だけついてまいれ。」と宣言します。
こうして家臣たちを信じる覚悟が出来た家康は戦の指揮を開始します。
この家康の決意で、戦況が一転し一向宗徒たちは追い詰められていきます。
この状況に「ご安心めされ。我らは負けませぬ。みな、この寺を守りたい。」と一向宗の軍師・本多正信は空誓に言い、さらに「私はここにいたいからここにいる」と告げます。
(和睦)
本證寺を攻める家康が号令をだします。そこに、本多正信がやぐらの上に登って仁王立ちをして「殿、殿に勝ち目はござらん。諦めなはれ。門徒たちは永遠に戦います。終わりはない。殿は必ず負ける。」と言いますが、次の瞬間、銃で撃たれます。
長引く本證寺との戦いの中、水野信元が寺と和睦しろと家康の元にやってきした。
しかし和睦は形だけで落ち着いたら寺を潰す計画でした。
家康は、このような卑怯な方法はとりたくなかったのですが、ここは仕方ありません。その策に乗ることにします。
本證寺側では、軍師の本多正信はその作戦に気がつき、空誓に「これは罠じゃ。和議を結んで兵を取り上げ、一揆を沈めた後、丸裸になった寺をつぶす。謀反人には、後から必ず厳罰がくだる。上人さま、騙されてはならぬ。」と言います。
しかし、戦が長引き、門徒衆が次々と死んだり負傷するのを見てきた空誓は「この子らに言うのか。あんた死んでこいと。わしは言えん。この子らを守りたかったんじゃ。この子らの暮らしを。みなすまん。この空誓、どえらい過ちを犯してしました。わしのせいじゃ。すまん。すまんのみんな。」といい和睦に応じることにします。
1564年春、家康は空誓と和睦しました。家康23才です。
この席で、空誓に「お殿様、わしの目を見て寺は元通りにすると言ってくれんか。」と言われ、一瞬、間がありますが家康は「元通りにいたす。」と答えます
この「元通りにいたす」が、色んな意味を持ってきます。
(本多正信を処刑せず)
こうして一向一揆は終結を迎えました。夏目広次は家臣の多くの嘆願により不問にしました。
さて、家康を殺そうと狙撃した本田正信に対し家康はどう処分するのか・・
正信には幼い頃に誘拐された玉という幼馴染がいました。8年前、盗賊の根城を攻撃したときに、偶然居合わせた遊女が玉でした。貧しい暮らしをしていた玉はすぐ命を落としてしまいます。その玉が最後まですがっていたのが仏でした。
こうした悲惨な体験をした本多正信は家康に「過ちをおかしたのは殿です。民が仏にすがるのは現世が辛いからです。自分の役目を果たさず、民の救いの場を奪うとは何事か。このおおたわけが。」と言います。
それを受け家康は「悔いておる。だが、この国を建てたおさなければならぬ。そのために、わしは前に進む。本多正信、三河から追放とする。二度と戻ってくることは相ならぬ。」といい、暗殺を企てた本多正信を殺しませんでした。
そして、本多正信のアイディアが出ます。
「長年の御恩、心よりお礼申し上げます。時に殿、まがいなりにも寺を元に戻すという約定を交わした以上、取り壊すには何らかの理由がいりまする。寺があった場所は、元の元はのっぱらなり。元に戻すでいかがかな。」
・・・なんと!!
(厭離穢土欣求浄土)
家康は、瀬名と一緒に岡崎城から城下を見下ろし「わしは愚かなことをした。わしが守るべきは、民と家臣であったというのに・・・」と言います。
すると瀬名は「ならば、これから成し遂げましょう。厭離穢土、欣求浄土・・・汚れたこの世を浄土に。」と言います。なんかいい奥さんですねええ。
この「厭離穢土 欣求浄土」は、徳川家康が旗印に使うようになります。 「穢れたこの世を厭い離れたいと願い、心から欣んで平和な極楽浄土をこい願う」という意味です。
その頃、千代は甲斐の武田信玄に、この度の騒動を報告し、家康に関しては、「才は、織田信長に遠く及ばず。私がこれまで見た将の中で誰よりも肝が小さく、ただし、そのことをご自身が理解しております。と話していました。
人間関係がドロドロと渦巻く世界ですねええ・・・。