日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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3月10日は東京大空襲が起きた日 空襲から78年の当日、慰霊の法要に参列してきました

10万人以上が犠牲となった

東京大空襲から78年となる
2023年(令和5年)3月10日(金)
東京・墨田区で行われた
慰霊法要に参列してきました。

 

(法要に参列)

1945年(昭和20年)3月10日未明、アメリカのB29爆撃機による大空襲で、東京は
下町を中心に壊滅的な被害を受け、10万人以上が犠牲となりました。

この東京大空襲から78年となる2023年(令和5年)3月10日(金)朝10から

東京・墨田区にある横網町公園内の東京都慰霊堂で、慰霊の法要が行われました。

 法要には秋篠宮ご夫妻、遺族代表、小池百合子都知事、関係者など100人が参列しました。新型コロナ感染対策で2020年から人数を制限していて、これまでは遺族。関係者は代表のみでした。しかし、今年は緩和され、おっさんを含め約40人が参加しました。

おっさんの席は通路側でした。

参列者には、法要スケジュールを書いた「式次第」が配られ、黄色のリボンが配られました。


「式次第」を開くと式のスケジュールが記載されています。

 

式は9時58分頃から始まりました。

 

この法要は、正式には「春季慰霊大法要」と言います。大法要は例年、東京大空襲が起きた3月10日と、関東大震災が発生した9月1日の年2回開催しています。

今回の「春季慰霊大法要」は10万人以上が犠牲になったとされる1945年(昭和20年)の東京大空襲からちょうど78年です。

 

法要は11時に終了し、その後は一般の方の焼香も始まりました。

 

(東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑 特別公開)

この日は特別に東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑の内部が公開されました。

 第二次世界大戦で、東京は、昭和17年4月18日の初空襲から終戦当日の昭和20年8月15日に至るまで、アメリカ軍の度重なる空襲により甚大な被害を受け、非戦闘員である多くの都民が犠牲となりました。この史実を風化させることなく語り伝えるために作られました。

斜面を覆う花は生命を象徴しています。碑の内部には東京空襲で犠牲になった方々の
名前を記録した「東京空襲犠牲者名簿」が納められています。
今回は、その内部の名簿を公開しましたが、撮影およびSNS掲載不可なので撮影していません。

 

東京大空襲国際法違反の民間人大量殺戮)

1945年(昭和20年)3月10日午前0時直後から始まった空襲で、東京の街は焼け野原になり10万人以上が死亡します。これは単独の,しかも1夜の空襲による世界史上最大規模の犠牲者数です。

この東京大空襲は「非戦闘員である民間人の殺戮」であり国際法のハーグ陸戦条約3条違反の行為です。

今回、法要が行われた東京慰霊堂には、東京大空襲の写真が掲げられていました。

東京大空襲を報じる当時の日本ニュース映像】

 

(計算された東京大空襲

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3月10日の東京大空襲には初めての試みがいくつかあります。

まず、民間人を本格的に狙った空襲。

これ以前の空襲のターゲットは、主に軍事施設でした。

 

爆弾の命中率を上げるための超低高度飛行、さらに夜間の爆撃、そして焼夷弾の使用という新しい戦術が本格的に導入されたのもこの空襲です。

さらにいかに効率よく焼き尽くすかの研究も行われています。

 

陸軍記念日に空襲)

東京大空襲がおきた3月10日は陸軍記念日でした。

 陸軍記念日とは、1905年(明治38年)に日露戦争で陸軍が奉天の戦いでロシア軍を破ったことにちなんだもので、この日は、記念式典があるため全国に疎開していた
東京の子供たちが都内に戻っていました。その日を狙ったのです。

 

(日本家屋の研究)

米軍は東京大空襲の計画段階で、江戸時代に起きた火事や1923年に起きた関東大震災で発生した火事の状況を調べ、その火元・火の燃え方や拡大の様子・風向き・延焼状況・被害の実態などを細かく分析しました。

そして木造住宅が密集する日本の大都市は大規模火災に対して非常に弱いことに注目し、「木造住宅をいかに効率よく燃やし焼き尽くすか」という攻撃に重点をおきます。

 

焼夷弾の開発)

住宅が密集する日本の大都市をいかに効率的に焼き払うかを研究するために、ユタ州に日本式家屋が立ち並ぶ住宅地、通称「日本村」を造り、そこで焼夷弾の燃焼実験を行います。この実験で日本家屋を焼き払うに1番ふさわしい、延焼能力が抜群なM69焼夷弾のナパーム剤を使用した焼夷弾が生ます。

 

(気象を研究)

本格的な東京大空襲がなぜ3月10日だったか、

それは一番効率よく空襲の成果が出るようにと米軍は日本の気候を完全に把握研究し、

3月10日が乾燥し風が強い日だとわかったので、その日を狙いました。

 

(毒ガスや細菌散布も予定されていた)

東京大空襲以降、連合軍は東京にマスタードガスなどの毒ガスを散布する研究、日本の農作物を枯らす薬品の散布、さらに日本国民用に炭そ菌をばらまく計画もありました。

結局、生物兵器化学兵器も細菌兵器もその使用前に戦争が終わりましたが、もし徹底抗戦でそのまま戦争が継続していたらと思うとぞっとします。

 

東京大空襲について書いた本】 

 

 

国際法違反の民間人の大量無差別殺戮を行い

1夜にして10万人以上の命を奪った東京大空襲

この日を忘れてはいけません。

 

なお、この東京大空襲を指揮したカーチス・ルメイは1964年(昭和39年)に日本の航空自衛隊の発展に大きく貢献したという理由で勲一等旭日大綬章をもらっています。東京大空襲のことを思うと考えらえません。