1904年(明治37年)日露戦争中の3月27日、
第二次旅順閉鎖作戦が行われます。
この作戦で初の軍神となる広瀬中佐と一緒に参加した
小池幸三郎海軍一等機関兵の像がありました。
(像があるのは川口護国神社)
小池幸三郎の像があるのは、埼玉県川口市の川口神社境内にある川口護国神社です。
(川口生まれの小池幸三郎)
小池幸三郎は、1980年(明治13年)埼玉県川口に生まれました。鋳物職人の弟子となりますが、その後横須賀の海軍に入隊し、軍艦:高千穂の乗組員になります。
(旅順を封鎖せよ)
1904年(明治37年)2月10日、日露戦争が勃発します。日本と大国・ロシアとの戦いです。
日本政府は、世界最強と謳われたロシアのバルチック艦隊と旅順にいる太平洋艦隊(旅順艦隊)が合流した場合には、日本側が圧倒的に不利となると判断していました。
そのため、旅順港の入り口を中心に汽船を沈め、旅順港に停泊するロシアの旅順艦隊を出撃させないようにする旅順港閉塞作戦を計画し、まず2月18日に第一次閉塞作戦を行います。
(第二次旅順閉塞作戦)
同年3月27日、海軍は第二回旅順港閉塞作戦を実施。小池幸三郎はこの閉塞隊に志願し、広瀬武夫指揮する福井丸に乗組し(広瀬他16名が乗船)、作戦に従事します。
広瀬武夫の指揮下で使用された福井丸は、自沈用の爆薬20キロと6インチ砲弾、セメントの塊などを積み込んでいました。
福井丸は、旅順港で爆薬に点火し、閉塞船として沈没を始めます。そして、乗組員はボートで退避しようとします。
しかし、ここで広瀬は福井丸から離れる際に、部下の杉野孫七兵曹長の姿が見えないことに気がつきます。
そこで広瀬は杉野を探すために自爆で沈もうとしている福井丸に1人で戻り、「すぎのー すぎのはどこだー」と叫びながら船内を捜索しますが、結局、杉野の姿は見つかりません。
広瀬少佐はボートにて帰還途中に、ロシア軍の砲弾の直撃を受け戦死します。35歳でした。この戦死で海軍は広瀬を海軍少佐から中佐に昇進させ、また日本初の軍神となり国民的英雄となります。
同時に、菅波政次二等信号兵と小池幸三郎二等機関兵も戦死しています。
小池幸三郎は享年二十五、没後、一等機関兵になります。
(川口護国神社)
川口護国神社にある小池幸三郎の像は、もともとは 1936 年(昭和11年)に日露戦争戦勝30周年を記念して地元川口の川口市公会堂 (現・市立中央公民館) 前に建てられました。それが1995 年(平成7年)に川口護国神社に移設されました。
下は像の碑文です。
【碑文】
海軍一等機関兵小池幸三郎を偲ぶ
君は小池武平氏の次子明治十三年七月十五日川口町二六鉢番地に生る。
明治三十三年十二月横須賀海軍兵団に入り、同三十五年六月軍艦高千穂の乗組員
となる。
日露戦役起るや直ちに旅順の攻略に従い、決死旅順港口第二次閉塞隊に志願し
広瀬武夫海軍中佐指揮の福井丸に乗船して猛砲火の下に港口水道に突入したが
黄金山の西海岸半鏈に達した時ついに敵駆逐艦の魚雷をうけた。
よって自ら爆沈して任務を完遂し広瀬中佐・杉野兵曹長と共に帰らず英魂とこしえに靖国の霊となる。実に明治三十七年五月夜のことである。
<<小池幸三郎の像がある川口護国神社への行き方>>
JR川口駅東口徒歩10分以内
住所:埼玉県川口市本町3丁目5-18