日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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4月7日 B29を体当たりで撃墜 (調布市国領)  

1945年(昭和20年)4月7日(土)昼、
東京都の調布上空でB29に
陸軍の戦闘機・飛燕が体当たりし撃墜しました。

 

(当時の首都東京の防空体制:空の要・陸軍航空隊)

太平洋戦争も1944年(昭和19年)後半になると米軍による日本本土の空襲が本格化し、首都東京(当時は帝都)も空襲に襲われます。

この帝都の空を守ったのが、調布にあった陸軍飛行場から出撃する航空部隊でした。

下の写真が陸軍調布飛行場、現在は東京都の調布飛行場です。長い滑走路があるのが
わかると思います。

現在の調布飛行場は滑走路が南北に1本だけですが、戦時中はこのほか東西にもう1本あり、敵機が襲来すると飛行第244戦隊の三式戦闘機・飛燕や五式戦闘機が出撃していました。

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調布飛行場掲示板より】

(陸軍・三式戦飛燕)

この調布飛行場から防空のために出撃していたのが三式戦・飛燕。
飛燕は、1943年(昭和18年)に陸軍に制式採用された戦闘機で川崎航空機が開発・製造を行いました。当時の日本唯一の量産型液冷戦闘機です。

陸軍調布飛行場の周辺には、戦闘機を敵の空襲から隠す掩体壕が130基設置されました。その多くは戦後に取り壊されましたが、陸軍調布飛行場の周辺の府中市三鷹市に2基ずつ、合計4基が残っています。

調布飛行場の北側から西側にかけては、都立武蔵の森公園があり、そこには大沢1号掩体壕、大沢2号掩体壕の2つが保存されています。

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①大沢1号

【大沢1号について書いたブログはココ】

②大沢2号

【大沢2号について書いたブログはココ】

 ③白糸台掩体壕

【白糸台掩体号について書いたブログはココ】

さらに、B29を撃ち落とす高射砲陣地もありました。

④首都防衛高射砲

(4月7日・中島飛行機の工場を空襲)

1945年(昭和20年)4月7日土曜日のお昼頃、「超空の要塞」 B29の大編隊、総計107機が、日本軍の戦闘機のエンジンや機体を制作していた中島飛行機武蔵製作所などの軍事施設を空襲しようと侵入してきました。このB29の編隊は富士山を目標に日本本土上空に入り、そこから右に旋回するコースをとっていました。

(帝都上空でB29を迎え撃ち)

B29飛来の情報を受け、日本陸軍飛行第244戦隊は、陸軍調布飛行場から陸軍の三式戦・飛燕で迎撃に向かいます。

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府中市の白糸台掩体壕に設置されていた看板より】

(調布上空で飛燕体当たりでB29を撃墜)

当日午前10時頃、調布上空で1機の飛燕が編隊を組んでいたB29の2番機の「ティティマウス」の左エンジンに体当たりを行います。

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体当たりを受けたティティマウスは、キリモミになって落下し、途中で右翼が外れるなどの空中分解を起こしバラバラになり調布各地に墜落しました。
その一部は国領町4丁目の國領稲荷神社(あるいは調布稲荷神社または小山稲荷)の
そばに落ちます。この神社、あとからも出てきますので覚えておいてください。

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一方、体当たりをした古波津里英(こはつ さとしげ)陸軍少尉は、落下傘で脱出し、風に乗って三軒茶屋付近の桜の木に引っかかり着陸します。そして、多摩川病院院長宅に運ばれ手当を受けます。その後、地元の人にリヤカーに乗せてもらい部隊に戻ります。

(B29乗組員たちは1人を除いて全員死亡)

体当たり攻撃を受けたティティマウスには機長 WISE, John O.中尉以下総勢11名が搭乗していましたが、レーダー手のSELLZ, Norman二等軍曹以外の10名は死亡し、その遺体は国領から布田一帯で発見されました。
墜落したB29の胴体には色彩豊かにビーナスが描かれていて、また機内にはコーヒー、紅茶、ミルクの蛇口がついていたそうです。


尚、唯一生き残った SELLZ 二等軍曹は、捕虜となり東部軍憲兵拘置所に収容され、
戦後帰国します。

(空中分解したB29の破片の下敷きになり・・・)

分解したB29の主翼部分は、国領に住んでいた一家を直撃し、壕内にいた5名と家屋にいた3名の合計8名がなくなりました。
その方のお墓には横一面に死亡された「昭和二十年四月七日」と刻まれていました。
(お墓に書かれた文字は個人情報のため一部加工しています)

 

(それぞれの遺体は円福寺に)

 死亡した米将兵10名と、撃墜されたB29の破片で死亡した一家の遺体は、布田の南にある円福寺に埋葬されました。
将兵の遺体10体は、終戦後、米軍が持ち帰りました。

 

(多くの住民が日中の体当たりを目撃)

 この戦いに関し米軍の公式記録ではB29左主翼に高射砲被弾となっています。しかし日本側の記録では飛燕による体当たりとなっています。

体当たり撃墜は2機で、古波津少尉機は調布国領上空でT-42 'Mrs. Tittymouse'、もう1機は、河野少尉機が杉並上空でZ-47 'Adam's Eve'に体当たりし撃墜しています。ちなみに河野少尉は亡くなられています。

この調布国領の体当たりが起きた1945年(昭和20年)4月5日は土曜日で、しかも日中だったので、空中戦を目撃した人の証言も多く残っています。

         

(国領稲荷神社の惨事)

 

太平洋戦争中には、撃墜したB29の乗組員を、一般市民が殺害する事件が各地で起きています。

日本国民は、敵国米英を「鬼畜米英だ」と教えられていたうえに、戦争で、身内が死亡したり負傷する、あるいは戦争後半には空襲で日本各地の家屋や故郷を焼かれるなどしていたため敵国人に対し恨みを持っていました。

 

4月7日に東京調布国領で起きたB29体当たり撃墜の時に、脱出したB29の乗組員を住民が殺害するという事態が発生しています。

この出来事、入手した資料には「国領稲荷神社の惨事」と記されています。f:id:reiwa00502:20210725185814p:plain

先程、紹介した国領町4丁目の國領稲荷神社(あるいは調布稲荷神社または小山稲荷)の近くに、体当たりを受けバラバラになったB29の残骸が落ちてきます。

撃墜されたB29の乗組員11人は1人を残し死亡したということですが、別の資料には8人が死亡し3人がパラシュートで脱出したともあります。

そして生き延びたうちの1人の米兵は、現在の調布市国領、京王線国領駅近くにある国領稲荷神社(あるいは調布稲荷神社または小山稲荷)、付近にパラシュートでおり、
神社に生えていた木に引っかかります。そして、ここで取り囲んだ住民たちに殺害されました。

 

現在、国領稲荷神社には1945年(昭和20年)4月7日に起きた惨事を物語るものは何も

ありません。f:id:reiwa00502:20210725190843p:plain

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<<調布国領稲荷神社への行き方>>

京王線国領駅から徒歩10分以内

住所:東京都調布市国領町4丁目

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(63年の時を超え)

さて空襲から63年が経過した2008年(平成20年)3月27日(木)に、国領駅付近で、駅の高架化の工事が行われ、ここ不発弾が見つかりました。
5月18日(日)には、この不発弾の信管の抜き取りのため、作業現場から半径5百メートル以内、8千世帯は朝8時から作業終了まで立入禁止となり、同時に、区域内を通る京王線もつつじヶ丘~調布間で午前9時頃から13時頃まで部分運休となりました。 

下の写真は不発弾処理が行われた現場周辺=京王線国領駅付近です。

この不発弾は、63年前の1945年4月7日の空襲の時、飛燕の体当たり攻撃で空中分解して落ちたB29が積んでいた長さ180センチ、直径60センチの1トン爆弾だとみられます。

 

1945年(昭和20年)4月7日、
東京調布の国領上空でB29が体当たりで撃墜されました。