5月27日、関門海峡を封鎖目的で機雷を投下しようと
飛来したB29を高射砲で撃墜しています。
(飢餓作戦)
太平洋戦争末期に米軍は日本本土の機雷による海上封鎖作戦を行います。この作戦は「飢餓作戦」と呼ばれ、1945年(昭和20年)3月27日から関門海峡や瀬戸内海で機雷が大量に投下されます。
その狙いは、海上輸送を麻痺させ、日本軍の補給や移動および、原材料や食料の流通を停止することでした。
飢餓作戦で出撃したB-29爆撃機は、延べ1529機で、投下された機雷の総数は1万2千個を
超え、この機雷で多くの日本商船が沈没し、物流が途絶えていきました。
下の写真はB-29爆撃機から投下されたパラシュート付きのMK26機雷です。
B29は焼夷弾だけでなく、海洋部には機雷も投下していました。
(機雷の半分近くは関門海峡へ)
投下された機雷のうち半数近くが関門海峡に集中的に投下されました。これは本州と
九州の物流の分断を目指していました。
そして1945年(昭和20年)3月には1日7万トンの船が通過していた関門海峡の通航量が、わずか三か月で1/40に減少しました 。
(5月27日に機雷投下にきたB29を撃墜)
1945年(昭和20年)5月13日 から6月6日は、第3期作戦が行われ、関門海峡では15回の投下で、1313個の機雷が敷設されました。
5月27日深夜から28日未明にかけて、B29の編隊が関門海峡を封鎖するために機雷を投下します。
迎え撃つ日本軍は高射砲をあびせ、うちB29の1機(機体番号44−69811、第313航空団9爆撃群第1爆撃隊所属)に命中し、機体が火の玉になって北九州の門司大里奥田に墜落しました。
搭乗員11人のうち機長のStanley C.BLACK大尉など10人が死亡します。
機体の残骸の中の遺体やパラシュートが開かず墜落死した遺体があり、墜落地に集まって来た人々がのぞき込んだり、つついたりしたそうです。
やがて門司憲兵分隊員がかけつけ、米兵の遺体は奥田の杉林、風師山の山腹、粟島神社の背後などに埋葬されました。ちなみにこの遺体は翌年の6月に米軍が回収しています。
(敵兵達を弔う)
北九州市門司区にある広済寺。
ここの住職がB29の墜落現場で米兵を弔っていたことから、この境内には撃墜されたB29の乗組員の追悼碑があり、下の写真の左下に見えます。
追悼碑にはB29乗組員11名の名前と年齢が刻まれています。
読みつらいので名前を拡大します。
追悼碑に刻まれた名前の左下に書かれたPALMER.Chales S.は、軍曹で、B29の尾部銃手でした。
彼は、撃墜されたB29の乗組員の中で唯一生き残った人で、パラシュートで脱出したものの、つかまり捕虜となります。
そして同日に福岡市にある九州西部軍管区司令部へ送られます。
(唯一の生存者は処刑されたという話も・・)
6月19日、福岡大空襲が起きます。
PALMER.Chales S.軍曹は、その翌日の20日に西部軍司令部の裏手にある福岡高等女学校校庭で処刑されたと言われています。
処刑は、西部軍捕虜管理参謀の佐藤吉直大佐、法務部長の伊藤章信少将らの容認の下に行われ、現場で指揮をした和光勇精法務大尉が2人、池田金芳准尉が2人、大西保見習士官が1人、冬至堅太郎主計大尉が3人の合計8人を斬首しています。
その、殺された1人が5月27日門司空襲で撃墜され、唯一生き残った PALMER.Chales S.軍曹だと言われています。(異説有り)
・・・ということで、
5月27日は、関門海峡を機雷封鎖に来たB29が
撃墜された日です。