日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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大河ドラマ「どうする家康」 ネタバレあらすじ 19話「お手つきしてどうする」

どうする家康の第19話は、
「お手付きでどうする!」

何というタイトル!!それではストーリーを見ていきましょう!

(信玄死す)
家康が治める三河への侵攻を進めていた武田軍が、突然、甲斐国に引き返し始めました。

これは何か異変が起きたのです!
そう!御大将の武田信玄が死亡したのです。
死の直前に、偉大なる父に対し信玄の息子・勝頼は、父が残した思いを成し遂げると
誓いますが、信玄は首を横に振り「そなたの世を作れ。そなたの器量は儂を遥かに、
しのぐ。そなたは儂の全てを注ぎ込んだ至高の逸材じゃ」と言います。

信玄は、「3年の間、我が死を秘するべし」と言い残しますが、信玄の死の情報は、
すぐに各地を巡りました。


当然、家康陣営にも伝わります。信玄の死の知らせを聞き「殿、助かりましたな。」と彦右衛門は喜びますが、家康は「敵とはいえ人の死を喜ぶとは何事か」と叱りつけます。さらに「その死が確かであるならば、わしは信玄入道を惜しむぞ。」と言います。

 

(将軍追放)

1573年7月。

信長は、室町幕府の将軍・足利義昭を都から追放します。
将軍を追放するんですよ!
これは凄いことです!!

足利幕府が形の上ではなくなりますが、以前義昭は役職上は征夷大将軍であり室町幕府の将軍でした。
そのあたりの話しは、下をクリックして御覧下さい。

足利義昭が正式に将軍でなくなるのは、征夷大将軍征夷大将軍を返上する
1588年1月13日です。


将軍を追放した信長は、さらに裏切った義弟の浅井長政を責め自害に追い込みます。
このとき浅井長政の妻で信長の妹のお市は、3人の娘と共に、織田家に引き取られました。このとき対応したのが、木下藤吉郎改め羽柴秀吉でした。市の3人の娘の1人は、
淀君ですから、ここにも色んな人間模様が見られます。

 

(お手つき・・)

天下統一へ動く信長、一方、その信長と同盟関係にある徳川家康は・・。

蒸し風呂に入っていたところ、侍女が入ってきて身体を流しにきました。

この女性は、お万と言い、戦で消失した「知立神社(ちりゅうじんじゃ)」の神職である氷見家(ひみけ)の娘で、岡崎で瀬名の侍女をしていたこともあります。

お万は、家康の身体を洗いながら「天は見てくださっているのです。殿の日頃の行い、お優しいお心、だから天がお守りになるんだとお万は思います。」と言います。

妻を岡崎の残し、言わば単身赴任状態の家康、その家康に若い女性が優しく接してきて・・なんともなんとも・・という雰囲気です。

信玄との負け戦、戦力の違いというショックから立ち直れていない家康にとっては、
優しく世話を焼いてくれる侍女のお万に、つい気持ちが傾いてしまうのでした。

 

(お万懐妊)

仲良くなった家康とお万。やがてお万は家康の子どもを身ごもります。
服部半蔵は、嬉しそうにその事実を家康に伝えます。
それを聞いた家康は「まずいことではないよな」と半蔵に言いますが、半蔵は「まずいことではないということではないでしょう」と笑いをこらえながら言います。
当時、正妻以外に側室を持つことは武士なら良くあることでした。子孫を残すことが重要であり、赤ちゃんが生まれるのはめでたい事です。しかし、そのめでたいことが正室である瀬名が与り知らぬところとなると、正室は面目丸つぶれとなるので話しは別です。

 

9月、左衛門尉と石川数正が、家康の妻・瀬名を浜松に移す話が岡崎から来ていると
伝えます。
その知らせを聞き、家康は、本来なら長年離れ離れだった妻とようやく再会できるという嬉しい知らせであるのに元気がありません。
そのなんとも怪しい様子に、2人は何かあると気が付き、家康は「お万が子を宿した」と打ち明けます。

すると、それを聞いた数正は「信長が敵を蹴散らしている時に、殿は何をしておられたのか!」と怒鳴ります。

 

(瀬名が来た!)

家康が浮気をしてその女を身ごもらせたという話は、すぐに正妻の瀬名に報告されます。
まさかの出来事に怒った瀬名は、浜松城に来て、家康に説教をし、さらにお万と直接会おうとします。
瀬名が来たことを知ったお万は、自分を縄で縛るように周りの人たちへ頼みます。

やがて瀬名がお万を探し出すと、お万は木に縛られて泣いていました。

お万は、瀬名に「気の済むまで折檻してくださいませ。殺されても文句は言いませぬ。」と言い、子を産めば徳川の家は乱れ、城を出ても実家は無く貧しいので、家康の子どもを立派に育てることもできない、もうどうしようもないと泣きます。

 

その姿を見た瀬名は「恥じることはない、それも女子の生きるすべじゃ。」と言い、
お万の縄を解きます。
お万は「恥じてはおりませぬ。欲しいものを手に入れるために男は戦はするが、女は人を癒し、安らぎを与えて手に入れる…女の戦い方の方がよほどいい、政もおなごがやれば良いのです。男どもにはできぬことがきっとできるはず」と言います。

瀬名は、お万に、家康からたくさんの金銭を受け取って、どこか別の場所でお腹の子を育てながら暮らしなさい、と伝え、お万は去って行きます。

今回のやりとり・・・お万の方が色々と考えていてかなり上手でした。

(お万が生んだ子供は・・)
ちなみに、お万が身籠もった子供は、家康の次男・秀康です。
秀康は、兄信康が死に追いやられたときに、後継者にはなれるはずでした。
しかし1584年、家康と秀吉が戦った小牧・長久手の戦いで豊臣家の養子に出され、家康の後継者は異母弟の徳川秀忠となりました。

これは母親の身分が秀忠の方が上であったからと言われています。
その後、秀康は結城家の養子になり 関ヶ原の戦いの後に「松平」姓に戻りますが、
34才で梅毒で亡くなります。

 

(一緒に住まない!)

瀬名は、家康に辛いときに支えてあげられなかったことを謝ります。なんと優しい心!こうしてお万問題が解決した家康は、瀬名に一緒に浜松にいて欲しいと頼みます。
しかし瀬名は「自分にはまだ信康と五徳の側でなすべき役目がある」と言い岡崎に戻ることに決めました。

浜松では依然、徳川を取り巻く状況は、厳しく、遠江の人々は家康のことを信玄に惨敗した大将として、軽んじ馬鹿にしています。
そして、その家康がいる三河にたいし武田勝頼は、進撃を計画するのでした。

(続く)