太平洋戦争中の1942年(昭和17年)5月24日、
プロ野球の延長世界記録が生まれました。
延長28回です!!
(太平洋戦争開戦半年後の試合)
このプロ野球最長延長世界記録が成立した1942年(昭和17年)5月24日は、日本が真珠湾奇襲をして太平洋戦争が始まっておよそ半年。各地で日本軍が快進撃を続けている時期でした。しかし、この年の4月18日にはアメリカのドーリットル隊が日本本土初空襲を行っています。
スコアボードの右には戦時スローガン「進め1億火の玉が」の文字が見えます。
この時代、プロ野球は職業野球と呼ばれている時代でした。
(トリプルヘッダーの第3試合で)
1942(昭和17)年5月24日、この日、後楽園球では昼前から続けて3試合が行われました。トリプルヘッターです。
・・当時は、プロ野球はフランチャイズ制が確立されてなかったために、1日3試合という日程も珍しくなかったのです。
ちなみにこの日の第1試合は午前11時17分から名古屋対朝日で、延長10回 3対2で名古屋の勝利。
第2試合は、午後1時開始で大洋対巨人で大洋が1対0で勝利。
そして、延長世界記録となる延長28回を記録した第3試合の名古屋対大洋の試合が午後2時40分から始まりました。
(名古屋・大洋戦)
名古屋と大洋の試合が始まりました。
ここで、名古屋は現在の中日ドラゴンズです。
一方、大洋はのちの大洋ホエールズではなく、1943年(昭和18年)に西鉄軍になりますが1943年のシーズンオフにこの球団は解散します。ですから、のちの西鉄そして現在の西武ライオンズとは関係ありません。
さて、話を1942年(昭和17年)5月24日に戻します。
大洋の先発は野口二郎、23歳、この年には40勝をマークする鉄腕ですが、試合前夜、
巨人の川上哲治と酒をかなり飲んで二日酔い状態でのピッチングでした。
一方、名古屋は西沢道夫投手。当時21歳。のちに中日で大打者として活躍しますが、この時は速球投手でした。
当日の打順は以下の通りです。
試合は7回まで4対2で大洋が勝っていましたが、9回に名古屋が2点を取って追い付き、そのまま延長になります。そしてその後、お互い、得点がありません。
延長15回を過ぎるとスコアボードの点数を表示する場所がなくなり、下の段に記入しています。
延長25回が終わった時に「中京対明石の延長25回戦の日本記録を破り、次の回へ進みます」というアナウンスが後楽園球場に響いたそうです。
そして延長28回も両軍得点なし。延々と続く0。
午後6時27分、審判団が協議して日没引き分けを宣し、4対4で試合は終わります。
試合開始から3時間47分でした。
(28回を投げ切った2人は野球殿堂入り)
野口投手も西沢投手もお互い28回を投げ切りました。
投球数は野口投手は344球、西沢投手は311球でした。
なお、28回を投げ切った2人は野球殿堂入りをしています。
この延長28回は、敵国アメリカ大リーグの最長イニング記録である1920年5月1日のドジャース-ブレーブス戦の26回(1対1)を2イニング上回っていて、世界記録であり、2023年(令和5年)5月24日現在もプロ野球の世界延長記録です。
(東京ドームの鎮魂の碑)
戦争では野球選手も戦場に向かいます。そして、そのまま命を落とした選手もいます。東京文京区水道橋の東京ドームには、戦場で散った野球選手の鎮魂の碑があります。
東京ドームを訪れた人は是非立ち寄ってください。
・・・ということで5月24日は
プロ野球再延長試合の世界記録が作られた日です。