日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

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6月3日は「雲仙普賢岳祈りの日」・・実は、普賢岳が噴火していたとき普賢岳がある島原に滞在した!!

※先ずは、雲仙普賢岳の噴火で被害に遭われた方々、亡くなられた方々に心よりお見舞いとご冥福をお祈りいたします。

6月3日は「雲仙普賢岳祈りの日」です。
雲仙普賢岳・・・長崎県島原市にある火山で、
平成の初めに大噴火し、
多くの方が犠牲となりました。
当時社会人だったおっさんは、
このとき、現地・島原にいて
火山噴火を何度も体験しているので
その様子や現地の雰囲気も紹介します!

↑こちら、雲仙普賢岳です。

 

(6月3日雲仙普賢岳で大火砕流発生!)

 普賢岳は1990年(平成2年)11月17日に198年ぶりに噴火しました。
以後、何度も噴火し、火砕流や土石流による被害をもたらします。

1991年(平成3年)6月3日、午後4時8分には、大火砕流が発生しました。
この火砕流では、避難勧告地区内で警戒中だった消防団員や警察官、取材中の報道関係者などが巻き込まれ、死者40人、行方不明者3人という大惨事となりました。
そして1996年(平成8年)6月に、ようやく「噴火終息宣言」が出されました。
普賢岳の噴火は、大規模火砕流が、世界で初めて鮮明な映像として克明に記録されたそうです。

(噴火中の雲仙普賢岳がある島原に滞在!)

火砕流がおきた1991年(平成3年)、おっさんは社会人になって2年目で、初任地の宮崎で働いていました。
その6月3日の大火砕流が起きたあとに、出張で長崎市から島原市に入りました。
その前年から普賢岳が噴火しているのは、たびたびニュースで流れていましたが、普賢岳がある島原に入るのはそんなに厳しくなく、交通規制はあったものの比較的自由に入れました。


しかし、島原市に入ると雰囲気が急に変わました。火山灰が結構降って、バリケード封鎖で交通規制がされた「立ち入り禁止地区」が複数有り、また警察官が要所要所にいて検問をしているのなど「厳重警戒態勢地域」を肌で感じました。

(ホテルは火砕流が来た立ち入り禁止地区の隣!)

島原市では、日本及び世界から報道陣が駆けつけタクシーを貸し切りにしていたのか、タクシーがつかまらない状況でした。
島原市にあるホテルも報道陣が押さえているので、なかなか空きがありませんでした。ようやく、あるビジネスホテルに宿泊しました。ここは今もあるホテルなのでホテル名は非公表にさせて下さい。
そのホテルが、かつて火砕流が押し寄せたことがある立ち入り禁止地区の隣!!
つまり、大規模火砕流が起きたら確実に巻き込まれて死ぬ確率が非常に高い場所なんです。おいおい!!
立ち入り禁止地区は、バリケード封鎖され警察官が24時間交替で管理していましたが、
火砕流が来たらその警察官も確実に死亡するという危険と隣り合わせです。
結局、ここまで火砕流が押し寄せる参事は置きませんでしたが、危険な思い出です。

普賢岳噴火に遭遇)

島原滞在中、普賢岳の噴火は昼夜ともよく起きていました。
下の写真は、日中の普賢岳の噴火のイメージ写真です。こんな風に煙を出していました。

そして夜の噴火・・・
夜の大規模な噴火は1回だけ遭遇しました。
その噴火では、映画のように火口から赤い炎を出して爆発するのでびっくりしました。
下のイラストのような感じでした。距離的に遠い場所で見たので噴火音は聞こえませんでしたが、この光景をリアルに体験するとマジでビビりますよ。

(当時の島原市長)

当時の鐘ヶ江・島原市長は、島原各地を視察されていて何度か遭遇しました。
ひげを伸ばしたままの姿で点滴を受けながら移動しているのには驚きました。たぶん、市民のために凄く尽力されていたと思います。また鐘ヶ江市長についていく記者やカメラマンといった報道の方々が多いのも印象的でした。民族大移動と言う感じでした。

 

(島原滞在中)

この時期、TVのニュースでは、当たり前ですが、普賢岳関連のニュースが毎日流れていました。新聞も普賢岳が一面でした。
TVでは、NHKをよく見ていたのですが、NHKの朝のニュース(当時は「おはよう日本」ではなく「モーニングワイド」)も、正午ニュースも夜7時のニュースも、さらに夜9時のニュース・「ニュース21」も、すべてトップ項目は「今日の普賢岳の様子」でした。
さらにNHKは島原に特別ラジオ放送局も臨時開局して毎正時、普賢岳の火山状況を知らせるニュースを出していました。

おっさんの島原市滞在は、1週間程度でしたが、スーパーもお店も、居酒屋も普通に
利用できたように思えます。ただ、公民館に避難している方もいたようです。
島原市を歩くと要所要所で、「現場・最前線」という感じがビシビシ伝わってきました。

 

(6月3日は「雲仙普賢岳祈りの日」!)

普賢岳の噴火災害で家を失った被災者の多くが移り住んだ島原市の仁田団地の第一公園内には「雲仙普賢岳噴火災害犠牲者追悼之碑」が建てられ、また、同市平成町の島原復興アリーナの海岸側には「消防団殉職者慰霊碑」が建てられています。

島原市では、この普賢岳の大惨事で犠牲となられた方々に哀悼の意を表すとともに、
災害を風化させることなく後世に受け継いでいこうと1998年(平成10年)から6月3日を「雲仙普賢岳祈りの日」と定め、献花などの追悼行事を行っています。
火砕流が発生した午後4時8分には、サイレンを鳴らし、黙祷を行っています。

雲仙岳災害記念館では、島原半島の小中学生が作ったろうそく約千本をともす「いのりの灯(ともしび)」が開かれます。


6月3日は「雲仙普賢岳祈りの日」です。

犠牲となられた方々のご冥福をお祈りします。