新選組は内部で対立や離反が何度もあり、
かつての仲間を何人も殺害しています。
新選組を離脱し御陵衛士を結成した伊東甲子太郎は
宴に呼ばれ、酒に酔った帰り道に殺害されました。
油小路事件です。
(新選組を離脱し御陵衛士を結成した伊東甲子太郎)
今回は、伊東甲子太郎(いとう かしたろう1835~67)の話です。
伊東甲子太郎は常陸国出身で、新選組に入隊します。しかし新選組を離脱し、同志14名と共に「御陵衛士(ごりょうえじ)」という組織を結成します。
この御陵衛士は、京都東山区の高台寺塔頭・月真院を屯所としたため、高台寺党とも呼ばれました。
(離脱した者は斬る)
さて、新選組は離脱した伊東甲子太郎のことを面白く思いません。そこで彼の暗殺を計画します。
しかし、伊東甲子太郎は北辰一刀流の剣術使い手であるため、新選組は正攻法では勝てないと考えます。そこで近藤勇は、戦略を立てます。
1867年(慶応3年)11月18日、伊東甲子太郎は、資金の用立てや国事の相談があるとして、近藤勇の愛妾の家に呼ばれ、ここで宴をします。
ちなみに、この日は坂本龍馬・中岡慎太郎が殺害された近江屋事件の3日後です。
また1ヶ月には大政奉還が表明されています。
伊東甲子太郎は、近藤勇、土方歳三ら、新選組幹部と酒を酌み交わし帰路につきます。
(酒に酔った帰り道を待ち伏せし大勢で襲撃)
その帰り道に、新選組隊士の大石鍬次郎らが待ち伏せして襲撃しました。酒を飲んだ状態での闇討ちです。本光寺周辺では斬り合いが繰り広げられました。
やがて伊東甲子太郎は、油小路で本光寺の門派石にもたれて絶命したと言われています。享年34。
新選組は、死亡した甲子太郎の遺骸をそのまま放置します。
遺体を引き取りにきた同志も、ここで襲撃しようというのです。
甲子太郎殺害の知らせを聞き、その遺骸を引き取りにきた同志は7名でしたが、この待ち伏せによって、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助の3名が討死しました。これが油小路事件です。
石碑は、伊藤甲子太郎が絶命した地と伝わる本光寺門前にあります。ここは京都駅から徒歩10分ほどのところです。
<<本光寺への行き方>>
京都駅から徒歩10分ほど
西本願寺から歩いて5分
住所:下京区油小路通木津屋橋上る東側(本光寺前)
妾宅に呼んで酒を飲ませ、
帰り道で酔った状態を複数で待ち伏せして暗殺する・
・・・・なんか情けないですね。