日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

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関門の守りを担った山口県下関市小月飛行場の第十二飛行士団

太平洋戦争当時、
山口県下関市東部の松屋地区には
関門の守りを担っていた
陸軍の小月(おづき)飛行場がありました。

(小月飛行場)
小月飛行場は王喜村(おうきそん)松屋の海岸を埋め立てて建設されたもので1940年(昭和15年)3月に完成しました。
当初は民間の「下関飛行場」として建設されましたが、竣工後、陸軍に移管されました。

1944年(昭和19年)7月には、第19飛行団を改編して編成された第十二飛行師団司令部編成され、司令部が小月に置かれました。

ここで、二式複戦・屠龍が八幡製鉄所、陸軍造兵廠(小倉)など関門・九州北部地区ヺ中心に防空にあたっていました。終戦までに69名の戦死者を出したそうです。

<<体験者談>>
小月飛行場におられた兵士やここで実際に働いていた方々の話を紹介します。

(女学生達が協力)
小月飛行場では、付近の女学生達の力が大きな支えでした。
基地にあった飛行機・屠龍の整備は田部高等女学校の生徒が行っていました。
飛行機は1回の飛行から戻ってくるとネジがゆるくなっているので、女学生達が、それを1つ1つ締めていたそうです。
また屠龍が備えていた斜め銃の弾丸は、長府高等女学校の生徒が、出撃前夜に作ったもので、数に限りがあり1機に5~6発しかなかったそうです。

(特攻隊)
小月基地からも沖縄方面に向け特攻出撃が行われています。

特攻隊というと志願してなるものだという印象が強いのですが、ここ小月基地では、
ある日、別室に呼ばれ、九州と沖縄が書かれた地図が手渡されます。
ここでは、この「地図を手渡す」というのが特攻隊に任命するという合図でした。その地図には、九州から沖縄までの飛行ルートが書かれていました。
飛行ルートは、海上をただ沖縄方面に向かうだけでは一面が海のため、今どこにいるのかがわからなくなる可能性があることから、島々を目印に南下していったそうです。
これは、小月から特攻出撃したものの途中で機体の故障で島に不時着し、生き残った方の証言です。

<<小月飛行場から飛び立ち関門の守りを担った方々>>

(B29撃墜王樫出 勇大尉)
樫出勇大尉は九州を中心とした本土防空を行い、終戦までにB29を26機撃墜しています(日本側発表)。このB29撃墜数は、史上最多です。

(小学校への墜落を避けるため脱出せずに最後まで操縦し山に激突し死亡:向後 次郎軍曹)

1944年(昭和19年)7月8日、B29が北九州の街を空襲します。小月飛行場からは迎撃のため屠龍が向かい、空中戦となります。
向後次郎軍曹は、北九州上空でB-29の攻撃を受け被弾します。そのため、小月基地へと戻ろうとします。
しかし次第に機体の高度が下がり墜落しそうになります。ふと前方を見ると、そこには生野小学校が見えてきました。小学校では全校生徒が運動場に集まっていました。
向後次郎軍曹は落下傘を着用していたので脱出しようと思えばできました。しかし、このまま脱出したら機体が小学校に落ち、子供達が死んでしまう・・そう考え、小学校や付近の住宅に飛行機が落ちないように操縦し、最後は下関市宝町の鳥越山に激闘し死亡しました。享年23。
当時の生野小学校校長が、現場を見に行ったところ「遺体は操縦程をしっかり握りしめていたので、その指を一本一本はがして、機体から下ろしてあげた」そうです。
(体当たりでB29を撃墜したパイロットたち)
小月飛行場から出撃した屠龍は体当たりでB29を何度も撃墜しています。

<野辺、今から体当たり>
1944年(昭和19年)8月20日、八幡の街を空襲に来たB29に対し、野辺准尉が乗る屠龍が「野辺今から体当たり」と無線で告げたあと、体当たりを行い2機を撃墜しています。

野辺准尉については、下をクリックして御覧下さい

自らの命を捧げ街を護ってくれた野辺・高木両氏に対し、地元では感謝をし、慰霊碑を作りました。f:id:reiwa00502:20210801154137p:plain

(地元で受け継がれている慰霊祭)

慰霊碑がある八幡西区の大膳自治区の方々が 今でも、毎年8月の第1日曜日に、慰霊碑がある広場で慰霊祭と周辺の清掃活動を行っています。

【2021年(令和3年)開催の体当たり勇士慰霊祭に参加】

おっさんは、2021年(令和3年)8月1日(日)に行われた慰霊祭に初めて参加してきました。この日は雨で慰霊祭は慰霊碑がある場所から少し離れた大膳公民館で行われました。

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【2021年(令和3年)開催のB29体当たり勇士の慰霊祭に
ついて書いたブログはココ】

【2022年(令和4年)開催の体当たり勇士慰霊祭に参加】
大膳自治会の方々に誘われ、2022年(令和4年)に行われた慰霊祭にも参加しました。
この日は快晴で、慰霊碑前にて式事が行われました。

【2022年(令和4年)開催のB29体当たり勇士の慰霊祭に
ついて書いたブログはココ】

<西村 勅軍曹>
1945年(昭和20)4月17日戦死。福岡県朝倉郡馬田村上空にてB-29に体当たりを敢行。

<木村定光少尉>
1945年(昭和20年)7月10日戰死。下関市彦島上空にてB-29に体当たりを敢行。

下は米軍が木村機が体当たりをしたB29を撮影した写真です。B29の機体から煙が出ているのがわかります。

(長崎原爆とも関係)
1945年(昭和20年)8月9日に長崎に史上2発目の原爆が投下されました。
当初、原爆の投下目標は、陸軍の造兵廠がある小倉でした。
原爆投下地が、小倉から長崎に変更になった理由には、天候悪化や前日の八幡大空襲の煙が視界を覆っていた(当時の原爆投下は目視)、あるいは鹿児島で合流するはずのアメリカの軍用機の到着が遅れてしまいB29の燃料が不足したなどの様々な説があります。
そしてもう1つ、当日、小月基地の屠龍2機が関門海峡上空を哨戒飛行していたことを米軍がキャッチしていて、「体当たりに警戒せよ」とB29に指示が出されていました。そこで米軍は小倉上空に長時間滞在するのは危険と判断し、小倉から投下地を長崎へと変更になったのではないかとも言われています。

そのため、小倉では長崎に原爆が投下された8月9日に慰霊式典を開催しています。

小倉での原爆の慰霊祭に参加しました。その様子は下をクリックして御覧ください↓

山口県の小月にあった陸軍の小月飛行場・・
太平洋戦争中、ここから飛び立った飛行機が

関門地区・九州方面を守ってくれました。