
(出典:日清戦争錦絵「威海衛陥落北洋艦隊提督丁汝昌降伏ノ図」
https://dl.ndl.go.jp/pid/1312134)
清国艦隊の北洋艦隊が降伏しました。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1920400/1/132)
(近代化した日本が初めて外国との戦争:日清戦争)
1894年(明治27年)7月25日、日清戦争が勃発します。(正式な宣戦布告は8月1日です。)
翌年の1895年(明治28年)2月5日には、威海衛の海戦が始まります。
この戦いで清国北洋艦隊の旗艦である定遠は、日本軍の水雷艇の夜襲雷撃を受けて座礁し、さらに9日には陸上からの攻撃を受けます。
2月10日、定遠は日本軍による鹵獲を避けるために自沈し、艦長は自決しました。
定遠は、ドイツ製戦艦で1885年(明治18年)に就役、清国北洋艦隊の旗艦となり、当時東洋一の堅艦と呼ばれていました。

そして2月17日には、北洋艦隊は降伏しました。

(出典:日清戦争錦絵「威海衛陥落北洋艦隊提督丁汝昌降伏ノ図」
https://dl.ndl.go.jp/pid/1312134)
(定遠を引き揚げ)
日清戦争が終了した後の1896年(明治29年)、旧福岡藩士で太宰府出身でもある小野隆助は、政府の許しを得て浅瀬に沈んでいた定遠を引き揚げます。そして 、太宰府天満宮に近い自宅に定遠の艦材を用いた定遠館を建てました。
(大正時代に文書に記された定遠館)
1920年(大正9年)に発行された「太宰府史蹟」という本がありました。ここには定遠館について、以下の説明があります。

【出典:太宰府史蹟 デジタル国会図書館https://dl.ndl.go.jp/pid/960991/1/47】
清国北洋艦隊の旗艦であった定遠の部品を利用した建物が九州太宰府にあると聞いて現地に見に行きました。
太宰府天満宮の太鼓橋への参道から横道にそれて少し歩くと駐車場があります。
ここの駐車場の門は、日清戦争で清国の北洋艦隊の旗艦であった戦艦「定遠」の装甲板を使用しています。



これが、清国北洋艦隊旗艦・定遠の装甲板なんですよ!!

触ってみたら、やはり頑丈です。
日本軍の大砲の弾を受けた跡が生々しいです。

身長175センチのおっさんより大きいです。

(今も残る定遠の様々な部品)
そして、定遠館です。思ったより小さいです。小屋みたいです。
定遠館は非公開でしたが、外からは見ることができました。

玄関には、艦内で使われていた手すりのようなものがあります。

綺麗な装飾です。


屋根裏の梁は、定遠にあった帆のロ−ブを通す輪付きの帆柱を使用しています。


定遠館の軒下には、端艇用ボートのオールを使用しています。ただ、これは修復の時に誤って破損したのでレプリカだという話もあります。

下の写真の方が、オールの形がよくわかるかと・・・・。

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住所:福岡県太宰府市宰府2丁目7-39
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【追加情報】
日清戦争の20年後に起きた、第一次大戦で活躍し、
地中海に遠征した戦艦が今も残っています。
触ることも乗ることも出来ます。
詳細は下をクリックして御覧下さい
2月17日、日清戦争の威海衛の海戦で
清国の北洋艦隊が降伏しました。
この戦いで実際に戦った清国の戦艦の一部が
今も残っています




