4月15日、
「空戦の神様」「闘魂の塊」と呼ばれた
海軍の杉田庄一が鹿屋で戦死します。
(「空戦の神様」「闘魂の塊」杉田庄一 )
日本軍の戦闘機乗りの中で「空戦の神様」「闘魂の塊」と呼ばれた人物がいます。
海軍のエースパイロット杉田庄一です。
杉田は1924年(大正13年)新潟県生まれ。
1941年(昭和16年)2月に予科練に入隊し翌年1942年(昭和17年)4月に第六航空隊に配属されます。
その年の10月にラバウルに進出し、前線基地のブインに展開します。
12月4日、ラバウルの第204海軍航空隊として訓練中にボーイングB-17フライングフォートレスと偶然遭遇し、右主翼に体当たりを敢行し撃墜します。
これが杉田の初陣であり、同航空隊によるB-17初撃墜です。
(山本五十六長官撃墜時の護衛機)
1943年(昭和18年)4月18日に山本長官が搭乗した一式陸上攻撃機が撃墜されて戦死します。
下の写真は撃墜されジャンブルに墜落した山本長官機です。
杉田は、その時にを護衛していた6機の零戦のうちの1機を操縦していました。
(空戦の神様)
その後、杉田は第343海軍航空隊に配属され、海軍の局地戦闘機・紫電改に乗り込むことになります。
1945年(昭和20年)1月には第343海軍航空隊(二代目、剣部隊)の戦闘301飛行隊「新選組」に配属されます。ここでは後進の指導も行い「空戦の神様」と言われました。なお杉田は343空の中で一番の撃墜数を記録していました。
(紫のマフラー)
杉田は紫色のマフラー愛用していました。これは訓練が行われた松山で、女学生から贈られたものです。そこには、杉田の名前と共に「ニッコリ笑へばかならず墜とす」の刺繍が施されていました。
杉田は、素早く短時間で戦闘を済ませてすぐに戦場から離脱する戦い方でした。
(鹿屋海軍基地で戦死)
1945年(昭和20年)4月15日、午後3時頃、海軍鹿屋飛行場では、敵機接近の報を受けて出撃命令が下ります。
しかし、その上空に数機のグラマンF6Fヘルキャットが来襲したため、離陸中止命令が出されます。
このとき杉田機が滑走していたため攻撃を受け撃墜され、黒煙を吐きながら基地滑走路の端に墜落します。機体は炎上し杉田は戦死しました。享年20。
杉田は、単独撃墜70機、協同撃墜40機の功績を全軍布告されて戦死による二階級特進で少尉に昇格しました。
杉田の実際の撃墜数は120機以上だったともいわれています。
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・・・・ということで
4月15日は「闘魂の塊」「空戦の神様」と言われた
日本海軍のエースパイロット:杉田庄一が
戦死した日です。