https://dl.ndl.go.jp/pid/1301559/1/1)
日本が最初に経験した本格的なコレラの流行は、
1877(明治10)年秋です。
これには、同時期に発生した
西南戦争の政府軍が大きく関係していました。
(1877年コレラが日本で大流行)
下は1877年(明治10年)の秋に出されたコレラ予防の絵図です。
コレラは当時は漢字で「虎列刺」「虎狼狸」といった字が当てられました。
苦しくて死ぬ確率が高くとても厄介な病気でした。

(出典:新聞集成明治編年史 第三卷:国立国会図書館デジタルアーカイブス
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920337/1/177)
(全国各地から政府軍兵士が長崎に)
日本で本格的にコロナが流行した年・1877年(明治10年)の2月15日には西南戦争が
起きました。
西郷軍を迎え撃つために明治政府は、全国から兵士を召集します。西南戦争は九州が戦場ですが、まず、集められた兵士は、大阪へ集められ、そこから船で長崎へと移動しました。そして、長崎から熊本や鹿児島など九州南部の戦場へ向かいました。
9月24日に西南戦争が終わると、今度は逆のルートで、長崎から海路で神戸、大阪へと兵たちが移動しました。
いずれも長崎を経由していたのですが、この時期の長崎には中国のアモイからのコレラが伝播していました。
そのため、これから戦場へ向かう兵士たちも、そして戦闘が終了して引き上げる兵士たちも、長崎に立ち寄るため、ここでコレラにかかってしまう者がいて、彼らが各地に移動することでコレラを運んでしまう形になり、コレラが広がってしまったのです。
(西南戦争戦後、長崎経由で故郷に帰る兵士たち)
政府軍兵士たちは、西南戦争が終結すると、長崎から船で大阪へ引き揚げます。
9月22日には、西南戦争の帰還兵たちを乗せて兵庫の海岸に停泊した亀福丸の水夫がコレラを発症しました。すぐに予防措置を執りましたが次々と87人に感染し発症しました、
その後も、西南戦争からの復員船が続々と神戸に入港して来ましたが、そのほとんどがコレラ患者で、10月だけで兵隊414人がコレラ患者でした。
長崎からの船でコレラ感染者が続出したため、大阪の陸軍事務所では、感染拡大防止のために、神戸港沖で停船措置を命じ、帰還兵の上陸を禁止しました。
しかし官軍の将兵のなかには、上陸禁止を無視して、勝手に上陸したものもいました。
こうして神戸と大阪では多くの帰還兵がコレラを発症し、1,000名以上の将兵が大阪の陸軍臨時病院へ収容されました。
また症状が軽いコレラに感染した軍人たちが、各地の故郷に帰ることで、彼らがコレラ菌の運び屋となり、市民にもコレラが広がっていきました。
9月26日の新聞記事には「コレラ全国的に流行」の文字があります。

(出典:新聞集成明治編年史 第三卷:国立国会図書館デジタルアーカイブス
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920337/1/178)
こうして、全国的なコレラの流行となり1万3816人が発症し、そのうちの8027人が死亡しています(死亡率約60%=半分以上が死亡しています!)。
(対策)
また、この時期は医学が未発達であり、コレラ対策は、患者の早期発見と隔離、そして「石炭酸」という消毒薬を散布するしかありませんでした。
当時の新聞記事(10月23日付)には、コレラ患者が使用した布団を衛生の問題で焼却する場合の大阪の料金が書かれていましたので、紹介します。

(出典:新聞集成明治編年史 第三卷:国立国会図書館デジタルアーカイブス
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920337/1/186)
・・・ということで、コレラの大流行には
西南戦争がかかわっていたのでした。





