16世紀、日本からヨーロッパへと旅立った4人の少年たち。
それが「天正遣欧少年使節」です。
彼らはローマに到着し、
ついにローマ教皇への謁見という大きな役割を果たします。
しかし――
帰国後、彼らを待っていたのは
想像以上に厳しい現実でした。
なぜ彼らは派遣されたのか。
そして、帰国後に何が起きたのか。
本記事では、天正遣欧少年使節の歴史をもとに、
👉 その栄光と波乱の運命をわかりやすく解説します。

1585年3月23日、天正遣欧少年使節が
ローマ教皇グレゴリウス13世に公式謁見しました。
彼らは史上初めてローマ法王に逢った日本人です。
(天正遣欧少年使節とは?)
天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は、1582年(天正10年)2月20日(旧暦1月28日)に、キリシタン大名である大友義鎮(宗麟)、大村純忠、有馬晴信らの名代として、長崎港を出発した4名の少年を中心とする使節団です。
日本にキリスト教の布教を成功させるためには、日本人の司祭・修道士を育成することが重要だと考えていたのです。
そのため、この使節派遣の目的は、大きく二つありました。
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ローマ教皇およびスペイン・ポルトガルの国王たちに、日本でのキリスト教布教の経済的・精神的支援を求めること。
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日本人にヨーロッパのキリスト教文化を見聞・体験させ、帰国後にその知識を広めることで布教を促進すること。
(天正遣欧少年使節団のメンバー)
使節団に選ばれたのは、帰国後に日本での布教活動を担うことが期待され、かつ長期間の航海にも耐えられる元気な少年たちで、以下の4人です。
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主席正使:伊東マンショ(大友義鎮の名代で、義鎮と親戚関係)
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正使:千々石ミゲル(大村純忠の名代で甥。有馬晴信の従兄弟)
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副使:中浦ジュリアン
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副使:原マルティノ

下は、1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された、天正遣欧使節の肖像画です。
"Newe Zeyttung auss der Insel ]aponien"(日本島からのニュース)と題されたこの肖像画には、使節団のメンバー4人と案内兼通訳のメスキータ神父が描かれています。
右上・伊東マンショ、右下・千々石ミゲル、左上・中浦ジュリアン、左下・原マルチノ。中央は案内兼通訳のメスキータ神父。

天正遣欧少年使節には4人のほかに修道士2名、神父3名、技術習得のための留学生2名が同行しました。
(ヨーロッパへの長い船旅)
こうして欧州に向かった一行ですが、当時は船旅、しかも今と違い航海技術も未熟な時代でした。
使節団は長崎を出発し、マカオ、マラッカ、インド、喜望峰を経由して2年半かけてヨーロッパへ到達します。
(ローマ教皇に謁見)
そして3月23日(旧暦2月22日)ローマでローマ教皇のグレゴリウス13世との謁見を実現し、ローマ市民権まで与えられました。
下は、1585年3月23日、教皇グレゴリウス13世と日本天正使節団の図です。
中央にある天蓋の下に座っているのが、教皇グレゴリウス13世です。
天正遣欧少年使節のリーダーであり、ヨーロッパへの最初の公式の日本の使者である
伊藤マンショがひざまずいています。

拡大してみますね。

教皇グレゴリウス13世が、左にいる片膝をついているイエズス会士に渡している書類には「イアポニクム(日本)」の文字が見えます。拡大してみますね。

この使節団の訪問によって、日本の存在がヨーロッパに広く知られるようになりました。
(帰国後の変化と波乱の運命)
1582年に大きな期待を受けて長崎の港を出港した天正遣欧少年使節ですが、彼らが日本を離れていた間に、国内の状況は大きく変わっていました。
キリスト教に理解を示していた織田信長が死亡し、少年使節を派遣したキリシタン大名たちも相次いで亡くなり、豊臣秀吉によるキリスト教弾圧が始まっていたのです。
1590年7月21日(旧暦6月20日)、一行は長崎へ帰還します。出発時に13、4歳だった
4人は、22、3歳の青年へと成長していました。
翌年3月3日(閏1月8日)、彼らは京都の聚楽第で豊臣秀吉と謁見し、ヨーロッパ視察の報告を行いました。さらに、持ち帰ったバイオリン、チェンバロ、ハープ、フルートを演奏し、西洋音楽を披露しました。
彼らはまた、活版印刷機や海図などの最新技術を日本に持ち帰り、西洋文明の発展を伝えました。
(天正遣欧少年使節の4人、彼らのその後)
帰国後、日本ではキリスト教への弾圧が激化し、少年使節団の運命も大きく分かれました。
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伊東マンショ:長崎のコレジオで教育活動を行うも、1612年に病死。
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千々石ミゲル:海外で奴隷制度を見てキリスト教信仰を放棄し、棄教。
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中浦ジュリアン:1632年、小倉で捕縛され、長崎で穴吊るしの刑に処され殉教。
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原マルティノ:キリシタン弾圧を逃れ、マカオへ追放。15年間活動を続けた後、1629年に死去。
(天正遣欧少年使節が遺した文化的影響)
彼らが持ち帰ったグーテンベルク式印刷機により、天草本と呼ばれる「平家物語」
「伊曽保物語」などの書籍が印刷され、日本の出版文化にも影響を与えました。
天正遣欧少年使節の旅は、日本とヨーロッパの文化交流史において、極めて重要な役割を果たしました。
しかし、その後のキリスト教弾圧により、彼らの活躍は一時的なものとなり、日本の歴史の中に埋もれていきました。
それでも、彼らが伝えた西洋文明や学問、音楽の影響は、確かに日本の歴史の中に息づいています。
・・・ということで3月23日は
キリシタン少年たちの大航海をして
ローマ教皇に謁見した日です。





