平等院鳳凰堂、綺麗な建物です。
完成しました。
(10円玉の模様として有名)
宇治平等院鳳凰堂は、10円玉に刻まれていることでも有名です。
(「宇治殿」と呼ばれた藤原道長)
宇治平等院鳳凰堂がある場所というと藤原氏のイメージがありますが、
最初は、嵯峨天皇の息子の源融(みなもとのとおる)がこの土地を手に入れて別荘を
建てました。
そして、関白だった藤原道長が引き継ぎ別荘とします。
そのため藤原道長は「宇治殿」と呼ばれていました。
さらに道長の死後に息子の頼通が引継ぎ、手を加えて寺院になります。
(栄華を極めた藤原道長)
鳳凰堂を完成させた藤原道長は、息子の頼通とともに藤原氏が貴族として栄華を極めた頃の人です。
これまでも娘を天皇の妃にした人は蘇我氏などがいますが、自分の娘を3人以上も
ちなみに、彰子(しょうし)は一条天皇、姸子(けんし)は三条天皇、
威子(いし)は後一条天皇、嬉子(きし)は御朱雀天皇にそれぞれ嫁いでいます。
そして、自分の娘が生んだ子どもを天皇にし、その子が小さいときは「摂政」、
成人したら「関白」になることで長期間、政治の実権を握りました。
「摂政」「関白」の文字をそれぞれ取って「摂関政治」といいます。
道長が詠んだ有名な
「この世をば 我が世とぞと思う望月の かけたることも なしと思えば」の歌は、
3人目の威子が後一条天皇に嫁いだ1018年10月16日に祝う席で詠んだ一句です。
その翌年、1019年には藤原道長の息子、頼通が関白になります。
ということで、道長にとっては、「天皇たちは娘婿」であり、「息子は貴族として最高位の関白」ということで、自身はその親となることから「朝廷の実力者」となります。
(鳳凰堂が建てられた時代背景)
鳳凰堂が完成する1年前、1052年は、末法元年と言われました。
当時は、末法思想というのが流行っていて、これは、「お釈迦様が亡くなって2千年が経った1052年からは、禍や天災や戦争などが起きる「末法の世」となってしまう」と
いうものです。実際に、天災や飢饉、人災が起きたため人々は本当に末法になると不安になったそうです
その頃は、今以上に人々の間に仏教が浸透し心のよりどころになっていました。
貴族の中にも不安になる人が多くあらわれ、阿弥陀如堂の建設が相次ぎました。
時の権力者の藤原頼通も同様に心配していたため、1052年に阿弥陀如来を安置する
阿弥陀堂の建立に着手します。
もう1つの時代背景として、おさえていきたいのは、このころ流行した「浄土信仰」です。
念仏を唱えて阿弥陀如来にすがり極楽浄土に生まれ変わることを願う信仰で貴族や皇族を中心に広まりました。
そして着工から1年後の1053年3月4日、平等院鳳凰堂と呼ばれる阿弥陀堂が完成します。
鳳凰堂は、正面から見ると左右の翼楼と後方に伸びた尾楼が、鳳凰が羽根を広げた姿に見える事から、その名がつきました。
鳳凰とは想像上の鳥で、この鳥が現れると世の中が平和になると信じられていたもの
です。
「末法思想」「鳳凰」「浄土信仰」・・・ 宇治平等院鳳凰堂にはこの3つが結びついています。
藤原一族の栄華を伝える、極楽浄土を再現した宇治平等院鳳凰堂は、世界遺産にも選ばれました。
なお、鳳凰堂の池に咲く蓮は、発掘調査で見つかった江戸時代の種を蒔いたものだそうです。
【宇治平等院鳳凰堂公式HP】
・・ということで3月4日は
宇治平等院鳳凰堂が完成した日です。
<<宇治平等院鳳凰堂への行き方>>
JR京都駅から宇治駅下車、徒歩10分
拝観料:大人:600円、中高生400円、小学生300円
【この地図の左下にある四角い写真をクリックすると航空写真に変わります。
地図上のルートを押すと道案内をしてくれます】