日本軍関係
かつて東洋一と言われた陸軍大刀洗飛行場。その跡地には、今も当時の名残が残っています。 (太刀を洗ったことから由来) 福岡県にある大刀洗(たちあらい)。この地名は、昔、神功皇后が西域平定に夫の仲哀天皇とともに九州入りしたとき、ここで太刀を洗っ…
太平洋戦争中、ガダルカナル島で約2万5千人が戦死や餓死でお亡くなりになりました。このうち、福岡歩兵第124連隊の将兵3,179名の慰霊祭が福岡縣護国神社で行われました。 (ガダルカナル島・餓島) 南太平洋に浮かぶイギリス領ソロモン諸島の1つで太平洋戦…
戦争中にわずか3カ月で58機を撃墜した帝国陸軍航空隊無双のトップエースがいました。篠原弘道准尉です。(日ソ衝突:ノモンハン事件) 1939年(昭和14年)5月から9月にかけて、満洲国とモンゴル人民共和国の間の国境線を巡ってノモンハン事件が発生します。 (…
戦争末期、日本軍の情勢が厳しくなる中、戦闘機が英国の2,200t級駆逐艦・パスファインダーを攻撃し大破させます。 (陸軍1式戦闘機 隼)海軍の零戦と並び戦争で活躍した名機、陸軍1式戦闘機隼。この隼が太平洋戦争終戦の半年前、すでに日本軍の戦況が不利に…
4月14 日、陸軍戦闘機・隼に乗る石川清雄曹長は、1300人が乗る輸送船に対し敵の魚雷が発射されたことに気がつきます。なんとか、それを阻もうとしますが間に合わないため、なんと、魚雷に体当たりして船団の仲間達の危機を救いました。 (松川丸の護衛)1944…
戦前、中国大陸には、蒋介石の中華民国以外にも複数の国や政権が登場しています。 (1940年:昭和15年の地図)下は1940年(昭和15年)、皇紀2600年に発行された中国大陸の地図です。当時、中国大陸には、中華民国(蒋介石)、満洲国、蒙古連合自治政府、南京…
1945年(昭和20年)4月8日(7日説もあり)日米両軍が激しい地上戦を行った嘉数の戦いが始まりました。日本軍6万4,000人、米軍2万4,000人の戦死傷者を出した沖縄戦最大の激戦地の1つです。(数字には諸説あり)(嘉数の戦い) 沖縄本島中部の宜野湾市にある嘉数…
(出典:「満州国皇帝陛下御来訪記念写真帖」(昭和10年:1935年出版)28ページより抜粋:デジタル国会図書館https://dl.ndl.go.jp/pid/1178554/1/28) 長い日本の歴史の中で、天皇が自ら出迎えた国家元首がいます。満州国の皇帝溥儀です。1935年(昭和10年…
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年) 3月に長崎駅の東方約1km、長崎公園の崖の下に立山防空後が作られ、ここに長崎県防空本部が置かれました。 (4本の横穴式)立山防空壕は4本の横穴式で、壕内には知事室や警察部長室、防空監視隊本部などが、配置されてい…
沖縄戦で有名なものの1つに、ひめゆり部隊があります。沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の近くにひめゆりの搭があります。 (ひめゆり部隊とは)日本軍は終戦の前年、1944年(昭和19年)12月に沖縄県で15~19歳の女学生を中心に看護訓練を…
3月10日、東京大空襲が起き 一晩で10万人以上が犠牲となりました。 東京大空襲から79年となる2024年(令和6年)3月10日(日)慰霊法要および追悼集会に参列。さらに今も残る空襲の傷跡を見てきました。(東京大空襲では一晩で10万人以上が死亡)1945年(昭…
一晩で10万人以上が犠牲となった 東京大空襲から79年となる2024年(令和6年)3月10日(日)東京・墨田区で行われた慰霊法要に参列してきました。 (法要に参列)1945年(昭和20年)3月10日未明、アメリカのB29爆撃機による大空襲で、東京は下町を中心に…
2024年(令和6年)3月10日(日)、 10万人以上が犠牲となった東京大空襲から79年です。この日、東京大空襲犠牲者追悼集会に参列しました。 (会場は遺体を借り埋葬した隅田公園)追悼集会の会場となったのは東京都台東区浅草七丁目一番にある隅田公園。この…
沖縄戦で日米両軍の激戦が繰り広げられた嘉数の戦い。その戦いが繰り広げられた沖縄県宜野湾市の嘉数高台公園から徒歩10分ほどの住宅街に「62師団独歩23大隊慰霊碑」と「球14212 下田部隊慰霊碑」の2つの慰霊碑が隣り合うように建立しています。 (沖縄戦最…
1945(昭和20)年5月24日、日本陸軍は沖縄戦で、義烈空挺隊による「義号作戦」を行い米軍に占領された北飛行場に強行着陸をしゲリラ戦を繰り広げます。 沖縄にある義烈空挺隊玉砕の地を訪れました。 (義号作戦とは)義号作戦とは、すでに米軍に占領された沖…
太平洋戦争中の3月2日、日本海軍は、戦闘海域でありながら沈没し海上に漂う敵国の兵士たちを救助します。さらに「あなたたちはゲストです」と手厚くもてなします。これぞ武士道です。 (スラバヤ沖海戦) 開戦の翌年、1942(昭和17)年2月27日、ジャワ島北…
糸満市にある平和祈念公園の片隅には沖縄戦で防衛を担った日本陸軍守備隊第32軍が最期を迎えた司令部壕が残っています。 (第32軍司令部終焉の地)現在、糸満市の平和記念公園にある黎明の塔。その脇にある海岸へと降りる階段を下りて行くと左側に壕がありま…
沖縄本島南部の糸満市米須にある戦没者の慰霊塔・魂魄の塔(こんぱくのとう)。終戦の翌年、住民が遺骨を拾い集め作ったかつて県内最大の納骨所・慰霊塔でした。 (魂魄の塔がある場所)地元在住の方にガイドをお願いし、沖縄戦跡巡りをしていた時、魂魄の塔…
米軍の艦砲射撃が始まった1945年(昭和20年)3月下旬から、本島南部への撤退命令が出された5月下旬まで使われた沖縄陸軍病院南風原壕。この壕は、黄金森と現在の南風原町役場近くの丘に掘られた人工壕の野戦病院でした。 (黄金の森にある南風原陸軍病院壕址…
日中戦争当時の1938年(昭和13年)2月25日、中国戦線で1人の飛行機乗りがデビューします。 初陣ながら見事に4機を撃墜した彼は、その後、終戦まで日本海軍のエースとして第一線で活躍します。通算で202機を撃墜し「海軍最強の戦闘機乗り」と呼ばれた零戦虎徹…
1936年(昭和11年)2月24日、ニュース雑誌・TIMEが発行されます。この号の表紙は上段が、昭和天皇と満州国皇帝の溥儀、下段がソ連のスターリンと蒋介石です。今回は、この表紙をもとに、当時=1930年代の中国大陸の状況を紹介します。(NANKING PREMIERとの…
沖縄戦で野戦病院で何があったか、当時のまま残る沖縄陸軍病院南風原壕群20号は専属のガイドが壕内を案内してくれます。沖縄戦を学習する方は是非、ここを訪れて下さい。 ★沖縄陸軍病院 南風原壕群20号は、壕の外観も含め撮影は一切禁止です(2023年11月現在…
【出典:銅像物語 国史絵話(時代社 昭和16年出版)33ページ:デジタル国会図書館 https://dl.ndl.go.jp/pid/1717272/1/33 】 2月22日、昭和最初の軍神・肉弾三勇士(爆弾三勇士)が誕生しました。 (肉弾三勇士とは) 肉弾三勇士、別名、爆弾三勇士・・。19…
沖縄戦のときに、住民が避難したり病院の分室が置かれたガマの中に入り見ることができます。糸満市にあるアブチラガマです。 (糸満市にあるアブチラガマ)アブチラガマは沖縄本島南部の南城市玉城字糸数(なんじょうし・たまぐすく・あざいとかず)にある長さ…
沖縄県南風原町にある陸軍病院壕と近くの集落を結ぶ「飯上げの道」と呼ばれる道があります。(沖縄陸軍病院)1944年(昭和19年)の10・10空襲後、沖縄陸軍病院は、那覇から南風原国民学校(現南風原小学校)に移ります。さらに翌年の1945年(昭和20年)…
宜野湾市にある嘉数高台公園(かかずたかだいこうえん)。ここは上陸した米軍と迎え撃つ日本軍との激しい戦闘地上戦が繰り広げられた大激戦地です。そして今も当時を物語る戦いの跡が残っています。 (嘉数の戦い)沖縄本島中部の宜野湾市にある嘉数高台公園…
沖縄県読谷村にあるチビチリガマ。ここでは沖縄戦で、80名以上が自決をするという大惨事が起きました。そして、ここには今もなお遺骨が残っている事から遺族会によって立ち入りが禁止されています。 (チビチリガマ一帯は神秘的な雰囲気)沖縄県読谷村にある…
2月14日午前11時26分、陸軍落下傘部隊は、オランダ領であるインドネシアのスマトラ島の パレンバンにある飛行場と精油所に降下し占領します。空の神兵です。 (石油の確保が最重要課題) 戦前、日本は石油の8割以上をアメリカからの輸入に頼っていました。当…
沖縄本島南の糸満市伊敷にある轟壕(とどろきごう)。ここは全長100メートルほどの自然洞窟で、「沖縄県庁最後の地」と言われています。(沖縄県庁最後の地)轟壕は、沖縄戦が始まる前から地域住民の避難場所として使用されてきました。そして沖縄戦が始…
沖縄戦で、有名なひめゆり部隊。ひめゆり部隊終焉の場所は,現在ひめゆりの塔がある場所が有名ですが、それ以外にもあります。沖縄本島南部の糸満市の荒崎海岸では、ひめゆり部隊の10名程度が手りゅう弾で自決しています。その散華の場所を訪れました。 (荒…