地域の史跡・観光地-関西・北陸
(出典:丙寅連城漫筆 第1 大正8年出版:デジタル国会図書館 https://dl.ndl.go.jp/pid/941475/1/9 を一部加工) (大坂城の堀に現れた怪物)1866年(慶応2年)6月9日に大坂城の堀から怪物があがったという話があります。 1919年(大正8年)に出版された「…
6月6日は梅の日・・それは室町時代末期に行われた神事にちなんでいます。 (神のお告げ)室町時代の1545年(天文14年)4月17日に、京都・賀茂神社の例祭(現在の葵祭です)で、時の後奈良天皇が祭神を祀ります。 この年は、晴天が続き雨が全く降らなかった為…
1805年(文化2年)5月 越中国の富山湾にこんな怪魚が見つかった??!! (富山湾に現る!!)江戸時代の1805年(文化2年)5月、富山湾で10メートルの怪物が捕まりました。 怪魚は全長約10メートル(鯨か!!??)般若で2本の角があり頭部約1.3メートル…
(出典:新聞集成明治編年史 第一卷:国立国会図書館デジタルアーカイブス https://dl.ndl.go.jp/pid/1920323/1/209) 1871年(明治4年)3月1日(新暦4月20日)に前島密の発議で東京~大阪間で官営の郵便事業が開始されました。(最初は3カ所)郵政サービス…
京都の有名な観光スポット・祇園にある安井金比羅宮は「悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所」として有名です。・・・ということで安井金比羅宮に行って、縁切りを体験してきました。(縁切り縁結び碑(いし))安井金比羅宮での縁切りの方法には難しい作法はありま…
文政7(1824)年2月7日、大雪が積もったこの日、駿河国に怪獣が出現します。 (駿国雑志)この怪獣を取り上げたのは、駿河国の地誌を記した「駿国雑志」という書物です。この書物は、駿府加番という役職の阿部正信が、地名や動植物や年中行事、さらに…
幕末、京都を中心に活躍した新撰組。その名は時代を超え、今なお多くの人々に愛されています。彼らが過ごした街・京都には、彼らの魂が宿る場所が今も点在しています。 みなさんは一度は、新撰組の勇士たちが歩いた道を自分の目で確かめ、彼らの思いを感じた…
1937年(昭和12年)1月6日、名古屋城に110枚ある鯱の金の鱗のうち半分以上の58枚盗まれていることが発覚しました。 (当時足場を組んでいた)事件当時、名古屋城は大規模な天守閣の実地調査のために足場が組まれていました。1937年(昭和12年)1月7日早朝…
京都を訪れるとよく鴨川沿いを歩きます。その鴨川沿いの京阪電鉄・京阪三条駅、三条大橋には「駅伝発祥の碑」が建っていて「駅伝の歴史ここに始まる」と刻まれています。 (東京都五十周年記念のイベントとして誕生)数人が長距離をリレー形式で走り、そのタ…
新政府になったときに、大阪堺の旧堺港で、土佐藩士とフランス水兵の衝突した堺事件。その事件の責任をとり切腹した土佐藩士の墓が切腹した妙国寺の向かいの宝珠院にあります。 (堺事件とは) 1868年(慶応4年=この年の9月に明治になります)2月15日、…
新政府になったときに、大阪堺の旧堺港で、土佐藩士とフランス水兵の衝突した堺事件。その事件の責任をとり切腹した土佐藩士の供養塔が切腹した妙国寺の境内にあります。 (堺事件とは) 1868年(慶応4年=この年の9月に明治になります)2月15日、新政府…
新政府になったときに、大阪堺の旧堺港で、土佐藩士とフランス水兵の衝突が起きました(堺事件)。その現場には事件の経緯を記述した石碑が建っています。(旧堺港に建つ2つの石碑)南海本線堺駅西口から南西に徒歩2分の場所にある旧堺港。ここに2つの大き…
現在、真田丸があった場所については諸説ありますが、最も有力な場所とされるのが、大坂市天王寺区餌差町にある大阪明星学園の敷地です。 (真田丸の最有力候補地)真田丸は、大坂城で手薄な部分である南側に、真田幸村が築いた出城です。この真田丸で幸村は…
徳川と豊臣の最後の戦いで活躍した真田幸村。その真田幸村が陣をかまえた真田丸があった大阪の三光神社。ここには大坂城への抜け穴が残っています。 (真田幸村が構築した真田丸) 大阪府中央区にある三光(さんこう)神社は、大阪城から少し歩いたところに…
大阪市天王寺区にある安居神社は、真田信繁終焉の地で境内には真田幸村の銅像や碑が建っています。 (真田幸村終焉の地:安居神社) 大阪市天王寺区にある安居神社。 1615年(慶長20年)旧暦5月7日、ここで、真田幸村が最後を遂げたと言われています。享年49…
太平洋戦争で敗れ、60万人近くの方がシベリヤに抑留され、つらく厳しい抑留生活を余儀なくなされます。 そんななか、ハバロフスクのある収容所では小さな犬が、捕虜たちの大きな心の支えとなりました。 そして、その犬は、捕虜たちが日本に戻る時に・・・。…
947年6月9日、京都北野にあった朝日寺の最鎮(最珍)らが朝廷の命により道真を祀る社殿を造営します。これが北野天満宮のはじまりです。 (ねたみで太宰府に左遷され無念の死)北野天満宮に祀られている菅原道真は、幼少期より優れた才能の持ち主で899年には…
京都鴨川にかかる三条大橋。この擬宝珠に、幕末に起きた池田屋事件で新選組がつけたと思われる刀傷が今も残っています!(池田屋に新選組が襲撃)幕末の1864年(元治元年)7月8日(旧暦:6月5日)に、京都の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの…
池田屋事件のきっかけとなった事件が起こった場所があります。そこには「勤王 志士 古高俊太郎邸址」と刻まれた石碑がたっています。 (勤王 志士 古高俊太郎邸址)京都市下京区河原町通四条上ル一筋目東入南側、四条河原町という、賑やかな繁華街の一角に石…
西本願寺の花屋町通と堀川通が交わる交差点の角にある太鼓楼、ここは、幕末期に新選組が屯所としました。 (人々に時を知らせた太鼓楼) 太鼓楼は1789年(寛政元年)に西本願寺に建立されました。高さはおよそ15メートル、内部は三層になっています。最上階…
京都市下京区西新屋敷の一帯は、かつて島原とよばれる花街でした。そこで揚屋(現在の料亭にあたる店)として営業していたのが角屋(すみや)です。角屋の前には「久坂玄瑞密議の角屋」の石碑があります。久坂玄瑞が、この角屋で同志と尊皇攘夷運動の密議を…
新選組の壬生の屯所の1つ、旧前川邸。ここでは池田屋事件のきっかけとなる古高俊太郎への拷問や切腹が相継ぎました。当時の部屋がそのままの姿で残っています。 ※当ブログでは、新選組時代を「前川邸」、新選組以降を「旧前川邸」と表現しています。(新選組…
新選組が訓練に明け暮れた壬生寺の北にある八木邸。ここは新選組の壬生駐屯地でした。また局長だった芹沢鴨が暗殺された場所でもあります。(新選組の屯所:八木邸、現在は和菓子屋さん)壬生寺の近くに八木邸がありました。現在、八木邸は、京都鶴屋・鶴寿…
JR山陰本線丹波口駅からすぐ、江戸時代には花街としてにぎわった京都・島原西門近くに島原住吉神社があります。 (花街・京都島原の近くにある島原住吉神社)島原住吉神社は京都の花街・島原の入り口近くにあります。もともとは、この地に住む住吉屋太兵衛と…
光縁寺は、自決した新選組総長・山南敬助のお墓がある寺です。(同じ家紋で意気投合)光縁寺の門前近くには、新選組の馬小屋があり、毎日、隊士たちが門前を行き交っていました。その中には新撰組副隊長の山南敬介もいました。ある日、山南は、山門の瓦が、…
京都市中京区にある壬生寺は、新選組隊士たちの訓練場として使われていました。(新選組隊士達が壬生寺で訓練)新選組ゆかりの寺として知られている京都市の壬生寺。1863年、新選組の結成当初の新選組が駐屯地を京都・壬生に置き、壬生寺を、新選組隊士たち…
京都の島原(しまばら)。京都市下京区にある日本最古の花街の名称で正式名称は「西新屋敷」といいます。(なぜ島原?)京都島原の歴史は豊臣秀吉までさかのぼります。秀吉が京都を再興するときに、二条柳馬場に柳町の花街の設営を許可します。その後六条坊…
JR京都駅の西方にある堀川通と塩小路通の交差点にあるリーガロイヤルホテル京都の敷地内には新選組不動堂村屯所跡碑があります。 (西本願寺から3度目の引っ越し) 1867年(慶応3年)6月15日、新選組は西本願寺から屯所を葛野郡不動堂村に移転しました。3度…
京都駅すぐ近く、ホテルの一角に石碑がありました。「此付近 新選組最後の洛中屋敷跡」と書かれています。この周辺は新選組3番目で最後となる不動堂村屯所の洛中屋敷跡です。 (西本願寺から3度目の引っ越し)1867年(慶応3年)6月15日、新選組は西本願寺か…
新選組は内部で対立や離反が何度もあり、かつての仲間を何人も殺害しています。新選組を離脱し御陵衛士を結成した伊東甲子太郎は宴に呼ばれ、酒に酔った帰り道に殺害されました。油小路事件です。(新選組を離脱し御陵衛士を結成した伊東甲子太郎)今回は、…