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【現地訪問】宮崎の山奥に残る「百済伝説」の聖地を巡る|1300年語り継がれる親子の物語

【現地レポ】
宮崎に残る百済王族の伝説を訪ねて
|親子が再会する「師走祭り」の舞台を巡る

宮崎県の山あいに、1300年以上にわたって語り継がれてきた百済王族の伝説があります。

しかも、この伝説は昔話として残っているだけではありません。

百済王を祀る神社や墓と伝わる古墳が今も残り、毎年1月には親子の再会を再現する「師走祭り」が行われています。

私は今回、その伝説の舞台を実際に歩いてきました。

さらに、1994年(平成6年)には師走祭りそのものを体験し、当時撮影した写真も残っています。

この記事では、現地で撮影した写真や30年以上前の祭りの記録を交えながら、宮崎に残る百済伝説をご紹介します。


📖この記事で分かること

✅ 百済滅亡と宮崎に伝わる百済伝説のあらすじ

✅ 百済王族ゆかりの4つの史跡

  • 比木神社
  • 伊佐賀神社
  • 塚の原古墳
  • 神門神社

✅ 1300年以上続く「師走祭り」の流れ

✅ 師走祭りに見られる朝鮮半島との共通点

✅ 1994年と2026年、30年以上にわたり現地を見て感じたこと


百済滅亡から始まった宮崎の百済伝説

百済は、朝鮮半島の南西部に栄えた古代国家です。
日本との交流も深く、多くの文化や技術を伝えたことで知られています。

西暦660年、朝鮮半島の百済が唐・新羅連合軍によって滅亡します。
すると、多くの王族や人々が日本へ渡り亡命します。


百済伝説とは?

百済伝説のもとになっている資料の一つが、宮崎県木城町にある比木神社に伝わる『比木縁起』です。

「比木縁起」によると、百済が滅亡した時に亡命した百済王族の中には、禎嘉王(ていかおう)と息子・福智王(ふくちおう)がいて、彼らは逃げる途中に、宮崎の日向灘に流れ着き、父は現在の美郷町(旧:南郷村)、息子は木城町に住みついたと記されています。

ただし、宮崎の百済伝説に出てくる禎嘉王も息子・福智王は、他の資料には、その名前がありません。百済の義慈王には、わかっているだけで40人以上の子供がいましたので、禎嘉王もその1人であったのではないかと思われます。

「比木縁起」からは、「乳母」「舎人」も同行していたことがわかります。

異国の地で、離ればなれになった百済王族。
その伝説を裏付けるように、現地には、彼らに関する遺跡があります。


① 比木神社(木城町)

福智王を祀る

木城町にある比木神社、
地元の人に「比木神社はどこですか?」と聞いたら「ああ御墓(みはか)ですね」と言われました。
「御墓(みはか)」という表現、そして何気なく、御墓(みはか)と口に出ることが、比木神社が、地元の人に親しまれている事を感じました。

ここは、息子・福智王を祀る神社として知られています。
下は、比木神社の案内板です。

境内へ足を踏み入れると、まず感じたのは静けさでした。
風が木々を揺らす音だけが響き、時間が止まったような空気に包まれています。
「1300年前、本当にこの場所で百済の王子が暮らしていたのだろうか。」
そんな想像をしながら歩く時間は、とても贅沢なものでした。

1300年前、本当にこの地で王子が暮らしていたのだろうか──。
そんな想像をしながら歩く時間は、とても贅沢なものでした。


② 伊佐賀神社(日向市東郷)

合戦が起き、討ち死にした次男が眠る場所

続いて訪れたのは日向市東郷町の伊佐賀神社です。
ここは、山の中にあり、探すのに苦労しました。
ナビを頼りに進んでもわかりにくく、周囲は深い森に囲まれていて「本当に神社があるのだろうか」と不安になりました。ようやく細い道に鳥居を発見。
鳥居をくぐり山道を登ります。

この鳥居です。

しばらく山道を登ると現れます。ご覧のように実に味がある神社です。
木々に囲まれ、独特の雰囲気があります。

静かな里山の神社ですが、この場所は師走祭りで、木城町からやって来た福智王一行と、美郷町から迎えに来た神門の人々が合流する重要な場所です。

そして、この場所にはもう一つの物語があります。

追っ手との激しい戦いが繰り広げられ、父・禎嘉王を守るために戦った次男・華智王が命を落としたと伝えられています。


③ 塚の原古墳(美郷町)

父・禎嘉王が眠ると伝わる古墳

山道を進むと、美郷町の田園風景の中に塚の原古墳があります。
かつては、南郷村でした。

ここは禎嘉王の墓と伝えられる円墳です。

古墳の前には、寄り添う親子の像が建てられていました。

写真左から、長男:福智王、父:禎嘉王、次男:華智王です。

祠がありました。


郷土史家に聞いたところ、この祠は2代目で、平成初期に作られました。
初代は木製でしたが、大雨で流されたそうです。


④ 神門神社(美郷町)

百済伝説の中心となる神社

現在の日向市美郷町(旧南郷村)にある神門神社です。

718年(養老2年)創建と伝えられ、禎嘉王を主祭神として祀っています。

静かで落ち着く、いい場所です。

現在の拝殿は1661年に建立され、国の重要文化財にも指定されています。

その拝殿の右側に「百済王守護益見太郎並に七人衆之碑」があります。


この益見太郎は、別名ドンタロウで、この地に来た百済王族を護った地元の豪族です。


石碑には次のように刻まれていました。

全文

百済王守護益見太郎並に七人衆之碑

 天平勝宝8年(756年)内乱により祖国を追われた百済王貞嘉帝が大和国厳島に逃れ2年後に反乱軍の追撃をさけ海路九州の太宰府えと脱出の途中激しい暴風雨で難航し王は日向市金ケ浜に漂着し、山奥の神門郷に住んだ。
 皇子と妃の船は高鍋蚊口浦へ流れ着き木城町の比木に安住した。
 更に王は追撃を受け東郷町下三ケ所中水流の伊佐賀峠にて応戦したが苦戦し、王子福智王が比木より援助し撃滅した。
 当時王に随身した神門郷の七人衆之、又王が神門に宮居を定めるに当り豪族益美太郎は土地を提供し宮居造営にも援助し食糧も補給したと云う。
 七人衆は神門神社宮司原田八郎氏の口伝えに依れば当時中邑、海野、小路、宮脇、村田、菊池、若杉の諸家にて鬼神野より中戸、下田家、中渡川の桑原家も加つて協力したと伝えられる。
 神門郷の各々の後継者が舞楽を継承し伶人として奉仕現在に至って居る。
昭和60年12月
 七人衆後継者一同建立
 寄贈者 南郷村神門名木 石工 若田畩好


正倉院と同じ「唐花六花鏡」
神門神社には、多くの銅鏡があります。その中でも「唐花六花鏡」は、奈良東大寺大仏殿の台座から出土した銅鏡と同一品です。

私は最初におとづれた1993年(平成5年)は触ることができました。

この鏡は、権力闘争に巻き込まれ、日向の地に流された百済王族を慰霊するために、後に朝廷から贈られたのではないかという見方もあります。

その貴重な文化財を守るために、神門神社の隣には、奈良の正倉院を忠実に再建した「西の正倉院」が建てられています。
神門神社を訪れるなら、西の正倉院もぜひ一緒に見学したいスポットです。


1300年続く「師走祭り」とは

宮崎県に伝わる百済伝説は、今も「師走祭り」として受け継がれています。
禎嘉王に息子の福智王が逢いに行くものです。
 昭和10年代から昭和23年(1948年)ごろまでは、比木神社から神門神社までの往復約90km(約23里)におよぶ道程を、すべて徒歩で巡幸していたため、9泊10日という長い日程で行われていました
現在、師走祭りは、毎年1月下旬の金曜日から日曜日までの3日間にわたり開催されます。
1994年(平成6年)に実際に現地に行き見てきました。
当時の写真で流れを紹介します。

【初日】

福智王の御神体を担いだ18名の一行が、木城町の比木神社を出発し、百済王が流れ着いたという日向の浜に向かいます。

ここで、海に入り禊をします。

そして、約90kmもの道のりを経て父・禎嘉王の待つ神門神社を目指します。
夜になると神門地区では20基以上の巨大な迎え火が燃え上がります。
これは、戦いのときに、追手の目をくらますために 火がたかれたという伝説にもとづくものです。

【2日目】
神門神社で夜神楽が奉納され、親子の再会を祝います。

【3日目】
最終日となる3日目は別れの儀式が行われます。

参列者同士が炭を顔に塗り合う「へぐろ塗り」。別れの涙を隠し、笑って見送るために、かまどの炭(へぐろ)を互いの顔に塗り合います

さらに神門地区の人たちが「オサラバー!」と叫びながら比木神社の一行を見送ります。急いで駆けつけたため、手に持っていたしゃもじやザルなどの炊事道具を振りながら別れを告げます。


実際に祭りを見て気付いた「朝鮮半島との共通点」

現地で祭りを見ていて興味深かったのは、朝鮮半島との共通点がいくつも見られたことです。

①豚の頭

●比木神社の一行を迎える神門神社が、おもてなしの御馳走の中に、豚の顔をそのまま使った料理がありました。これを最初に見た時は「ぎょっ」としました!!
韓国では豚の頭は、告祀(コサ)と呼ばれる厄除けの儀式に欠かせないだそうです。

②石積み

●氏子や祭りに参加した人達の行列は途中、河原に降りて石を拾います。
その石を神門神社近くの石塚に納めます。朝鮮半島では、同じように道を通る人が道中の安全を願い石をそなえるソナンダンという似たような風習があります。

③へぐろ塗り

●「へぐろ塗り」は朝鮮の田舎にも「旅立つ人の顔に魔除けとして墨を塗る」という風習があります。

④オサラバー

●別れの時に、神門神社側の人たちが話す「オサラバー」は韓国語の「サラボジャー(生きて再び会いましょう)」が語源とされ、次の一年までどうか無事でいてほしいという切実な願いが込められています。

そして神門神社の隣には、韓国の王宮を再現した「百済の館」もあります。


✅ 1994年と2026年、現地を見て感じたこと

私は1994年(平成6年)に師走祭りを見て以来、30年以上ぶりにこの地を訪れました。

現地では今も変わらず、人々は百済王族の物語を大切に守り続けています。

歴史とは、史料や遺跡だけではありません。

人から人へ語り継がれ、地域の人々が守り続けてきた「記憶」もまた、歴史の一部なのだと改めて感じました。

宮崎県北部に残る百済伝説。

歴史好きの方には、ぜひ一度歩いていただきたい場所です。