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【動画あり】7月25日、終戦3週間前、小学校が空襲された――127人の子どもたちが亡くなった保戸島を訪ねて

 

保戸島空襲の現場を訪ねて
――犠牲になった子どもたちに手を合わせる

1945年(昭和20年)7月25日、終戦まであと3週間という時期に、大分県津久見市の保戸島で悲惨な空襲がありました。

米軍機の攻撃を受けたのは、500人もの児童が通っていた保戸島国民学校。

この空襲によって、児童124人、教員2人、教員の子ども1人の合わせて127人が亡くなりました。

全校児童の4人に1人です。

1年生と5年生は、在籍していた児童が全員亡くなったとされています。

この保戸島を訪れました。

そして、実際に空襲の被害を受けた学校を訪ね、慰霊碑に手を合わせました。

さらに、亡くなった児童たちの遺骨を集め、それを使って造られたというお地蔵様が安置されている海徳寺にも足を運びました。

豊後水道に浮かぶ小さな島・保戸島

保戸島は、瀬戸内海と太平洋をつなぐ豊後水道に浮かぶ小さな島です。

大分県津久見市に属し、周囲はおよそ4キロ。

戦前の保戸島はマグロ漁で栄え、約2200人が暮らす活気のある漁村でした。

島唯一の学校である保戸島国民学校には、500人もの児童が通っていました。

しかし、戦争が始まると、島の暮らしも大きく変わっていきます。

海を見下ろす高台には海軍の基地が設けられ、対潜水艦監視の施設も置かれ若い女性たちも監視員として動員されました。

1945年7月25日、学校が襲われた

そして1945年(昭和20年)7月25日。

終戦のわずか3週間前、米軍の空母艦載機グラマンF6Fヘルキャットが保戸島を襲いました。
米軍資料によれば、目標はレーダー基地とのことでしたが、実際に爆弾を投下したのは、500人の子どもが通う保戸島国民学校でした。
爆弾の直撃を受けて校舎は崩れ落ち、逃げ惑う児童には機銃掃射が浴びせられました。

この空襲によって、127人の尊い命が失われました。

そのうち124人が児童でした。

空襲を受けた学校へ

今回、保戸島小学校に電話をして許可を頂いたので、空襲を受けた当時の保戸島国民学校である、保戸島小学校を訪問しました。

先日、私は学校の許可をいただき、現地を訪ねました。
そして慰霊碑の前で、亡くなった児童たちに手を合わせました。
動画で御覧下さい👇

慰霊碑は、門の近くにありました。

慰霊碑の下には、犠牲になった方々の氏名が刻まれていました。

あの日、子どもたちは普通に登校していました。

友達と話していた子もいたでしょう。

先生の話を聞いていた子もいたでしょう。

家に帰れば、家族が待っていたはずです。

それが、突然の空襲によって奪われました。

亡くなった児童たちの遺骨で造られたお地蔵様

学校を訪ねたあと、島内にある海徳寺へ向かいました。

このお寺には、先々代の住職が、保戸島空襲で亡くなった児童たちの遺骨を集め、それを使って造られたというお地蔵様があります。

住職に話を聞くと、空襲で被害を受けた児童たちは、あとかたもなく 骨も粉々になっていたそうです。その粉になった骨を先々代の住職がコンクリートに混ぜてお地蔵さんを作ったという事です。そして長い年月で次第に色が白くなってきたという事です。

私はそのお地蔵様の前でも、手を合わせました。

亡くなった子どもたちの遺骨が、その地蔵の中に納められている。

そう思って手を合わせると、言葉が出てきません。

亡くなった子どもたち・・・、その子どもたちの骨はお地蔵さんになり、今もこの島に残っています。

アクセス

保戸島に行くには、津久見港から船に乗ります。
フェリー乗り場の駐車場は無料です。

近くにはスーパーマーケットがあります。

私が島に渡った時の往復料金は880円です

この船で島に向かいます。片道30分ほどです。

島から 海徳寺までは5分、保戸島小学校までは徒歩10分です。


127人の命を忘れないために

1945年(昭和20年)7月25日。
この日、保戸島で多くの子どもたちの命が失われました。
亡くなられた127人の方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。