日刊  おっさんの語り継ぎたい歴史― おっさんの人生 これから大逆転だぜえ ―

7年連続・2700日以上毎日更新中。歴史の現場を歩き、未来へ伝え残したい

ダイエットの挑戦
重曹クエン酸水は効果がない
前立腺ガンやPSA
妖怪怪物
MENU

 【広島原爆の日2026】原爆投下から80年、平和の鐘を叩いた|爆心地・原爆ドーム・祈りの列を4本の動画で記録

【広島原爆の日2026】
原爆投下から81年、広島を歩く
|祈りの列・平和の鐘・爆心地を4本の動画で記録

1945年(昭和20年)8月6日、午前8時15分。

広島市街地の上空約600メートルで、原子爆弾「リトルボーイ」が炸裂しました。

原爆投下から81年の8月6日(木)、私は広島平和記念公園を訪れました。

今回の記事では、当日の広島の様子を
「祈りの列」
「原爆ドーム」
「平和の鐘」
「爆心地」

の4本の動画とともに現地を歩いて見た、「81年後の広島のいま」をお伝えします。


人類史上初の原爆、広島へ投下

1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分。

アメリカ軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が広島市に原子爆弾「リトルボーイ」を投下しました。

原子爆弾は、市街地の上空約600メートルで炸裂。

広島市は一瞬にして壊滅的な被害を受けました。

戦争で人類史上初めて原子爆弾が投下されたのです。




 2026年(令和8年)8月6日、広島を歩く

原爆投下から81年となった2026年(令和8年)8月6日、広島を訪れました。

平和記念公園には、朝早くから多くの人が集まっていました。

式典に参列する人。

原爆死没者慰霊碑に手を合わせる人。

静かに歩きながら、平和への祈りを捧げる人。

テレビや新聞で見る広島とは違い、実際にその場所に立つと、人の多さだけでなく、独特の緊張感と静けさを感じます。

今回は、私が実際に撮影した当日の平和記念公園周辺の様子をご覧ください。


広島市平和記念公園周辺ガイダンス
原爆が落とされ、現在、平和記念公園になっている場所を、周辺の地理関係を紹介します。
原爆ドームと爆心地は平和記念公園のすぐ近くです。

f:id:reiwa00502:20210806184046p:plain


 一般市民が生活してた広島の繁華街に原爆を投下

現在、平和記念公園となっている場所は、原爆投下当時から「平和公園」だったわけではありません。

この地域はかつて中島地区と呼ばれ、広島城が築かれた頃から発展してきた町人町でした。

戦前は広島市内有数の繁華街で、明治末に広島初の映画館ができ、ビリヤード場もある非常に活気にあふれた地域でした。
映画館や商店などもあり、多くの市民が普通の生活を送っていました。
下の写真は1920年代前半(大正時代末期)の様子です。

つまり、現在私たちが「平和記念公園」と呼んでいる場所は、1945年(令和8年)8月6日には、多くの市民が暮らし、働く「街」だったのです。
ということで、米軍は軍事施設ではなく一般人が普通に生活していた住宅街に原爆を投下したのです。
これは、日本や米国が批准していた、非戦闘員である民間人の殺戮を禁じたハーグ陸戦条約違反行為です。

下の写真は原爆が落とされる直前の中島本町の地図です。拡大して見ると住宅地・繁華街だったのがわかります。

原爆投下により中島本町は壊滅し、投下時に町内にいた住民は、たまたま地下室にいた1人を除いて全員が死亡しています。
また中島本町に居住していたことが確認できた435人中352人が、原爆が投下された年末までに死亡しています。
下の写真は原爆投下の翌月に撮影された中島本町の一部・中島地区です。


 原爆投下前と投下後、街はどう変わったのか

下は米軍が撮影した原爆投下前後の爆心地付近の空中写真です。
住宅地が焼け野原になっているのがわかります。

原爆投下前後の航空写真を比較すると、街並みが一変していること、すなわち

建物が密集していた市街地が、一面の焼け野原へと変わっていることがわかります。

現在の広島には、ビルが建ち、道路が走り、多くの人が行き交っています。

しかし、その同じ場所で原爆が投下され、何が起きたのか。

それを知るためには、地図や写真と現在の風景を重ね合わせて見ることが重要だと感じました。


原爆死没者慰霊碑へ続く「祈りの列」

午前8時15分。

広島に原爆が投下された時刻に合わせて、平和記念公園では黙とうが行われました。

その後、一般の参列者による原爆死没者慰霊碑への献花や黙とうが始まりました。

私もその列に並び、慰霊碑の前で黙とうしました。
慰霊碑へ向かう人の列は途切れることなく続いていました。

【動画】原爆死没者慰霊碑へ続く「祈りの列」

原爆死没者慰霊碑に刻まれているのは、

「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませんから」

という言葉です。

慰霊碑の向こうには、原爆ドームが見えます。

f:id:reiwa00502:20210806185550p:plain


爆心地へ――東京スカイツリーより低い場所で原爆炸裂

広島の原爆は、現在の平和記念公園から少し離れた島病院付近の上空で炸裂しました。

原爆が炸裂したのは、地上約600メートル。

東京スカイツリーの高さが634メートルですから、それより低い位置です。

つまり、
スカイツリーより低い高さで原爆により3000度の熱風、爆風、放射ができたわけです。

そして、その真下には、多くの市民が生活していました。
【動画】広島原爆 爆心地 
ここに史上初が原爆投下されました

爆心地には、原爆の破壊力を示す写真が展示されていました。

無料ボランティアガイドの方によると、病院の隣にある駐車場の右側のバーの部分の上空が、爆心地ではないかと言われているそうです。


爆心地から原爆ドームへ

爆心地からおよそ160メートルの場所にテレビなどで頻繁に目にする原爆ドームがあります。
【動画】世界遺産原爆ドーム

原爆ドームは、原爆投下前は「広島県産業奨励館」という建物でした。

1944年(昭和19年)から内務省中国四国土木出張所、広島県地方木材株式会社など官公庁等の事務所として使用されていました、

f:id:reiwa00502:20210806200843p:plain

原爆投下と同時に一瞬に壊滅状態となり、この中で働いていた方々は全員即死です。

この原爆ドームから、原爆の破壊力の凄まじさが見えてきます。

下の写真の階段は鉄でできていますが、原爆の熱と爆風で曲がっています。
しかし、よく考えて下さい。この階段は建物の中にあったものです。ということは、原爆によって、建物の中にあった鉄製の階段が、このようにグニャリとなったのです。

対岸に行くと原爆ドームの被ばく前後の姿が対比できます。

現在、私たちが見る原爆ドームは、80年前の爆発の凄まじさを今に伝える存在です。


被爆者が水を求めて集まった元安川

原爆ドームのすぐ前を流れる元安川。

原爆投下は朝8時15分、その5分前の8時10分にはこの川は満潮を迎え水位が上がっていました。
そして原爆がさく裂した後、水を求め多くの方がこの川に殺到したそうです。

水を求めて川へ向かった人々。

川岸に倒れた人々。

その光景を、現在の穏やかな元安川から想像するのは容易ではありません。

だからこそ、現地を歩き、当時の写真や証言と現在の風景を重ね合わせることが大切なのだと思います。


爆風の痕跡を今に伝える元安橋

元安川に架かる元安橋にも、原爆の爆風による痕跡が残っています。

現在の橋を見ているだけでは、80年前にここで何が起きたのか想像するのは難しいかもしれません。

しかし、橋の一部には、爆風によって生じた損傷の跡を見ることができます。

こうした小さな痕跡を一つひとつ見ていくと、原爆の破壊力が単なる数字ではなく、現実のものとして迫ってきます。

このように爆風で崩れているのがわかります。


 平和の鐘

平和記念公園には「平和の鐘」があります。

8月6日午前8時15分。

原爆が炸裂した時刻に合わせて鐘が鳴らされ、広島の街では黙とうが行われます。
この鐘は4本の柱で支えられたコンクリート製のドーム型の屋根に、口径約1m×高さ1.7m、重さ約1,200kgの梵鐘が下げられています。
うまく撮影できなかったのですが、鐘の表面には、国境のない世界地図が描かれ、鐘を打ち付ける部分には原子力のマークが、その反対側には丸い鏡が表現されています。
また周囲にある池には蓮が植えられています。
これは、被爆者が垂れた皮膚に蓮の葉を包帯代わりにして巻き付けたからだと言われています。

【動画】広島の平和の鐘を叩く


一発の原爆で広島は壊滅

広島に投下された原子爆弾「リトルボーイ」は、ウラン235を使用した核兵器でした。

当時の広島市の人口は約35万人。

原爆投下によって、1945年末までに約14万人が死亡したとする推計が広く知られています。

爆発直後の死だけではありません。

熱線、爆風、火災、放射線による被害によって、多くの人がその後も亡くなりました。

一発の原子爆弾が、一つの都市と、そこに暮らしていた人々の人生を一瞬にして変えたのです。

f:id:reiwa00502:20210806192644p:plain


アメリカは被爆者の状況は見ても治療はせず
戦後、アメリカのABCC(原爆傷害調査委員会)という機関が、被ばくされた方を定期的に訪れました。
このABCCは、被爆の人体への影響や進行具合を調べるだけで治療行為はしていません。原爆の効果や威力、人体への被害や影響をみてデータを取得し観察するだけです。


原爆の凄まじい破壊力を物語るもの
広島に投下された原爆の破壊力をしめすものが、爆心地からおよそ1キロ離れた広島城にありました。

f:id:reiwa00502:20210806195948p:plain

【広島大本営】
明治国家が初めて外国との戦争を行った日清戦争(1894年:明治28年ー1895年:明治28年)の時、広島城内に大本営が作られ、ここで明治天皇が戦争の指揮をとります。

長い歴史の中で大本営が東京以外にできて実務が行われたのは、ここ広島だけです。

しかし、この大本営も原爆の爆風で倒壊し、今では基礎の石だけが残っています。

f:id:reiwa00502:20210806193416p:plain

f:id:reiwa00502:20210806193937p:plain

【広島大本営について書いたブログはココ】

【中国軍管区司令部防空作戦室】
広島城の中には太平洋戦争末期に中国軍管区指令部の防空作戦室が設けられました。
ここから中国地方5県に空襲警報などの情報が出されていました。

f:id:reiwa00502:20210806195149p:plain

しかし原爆で一瞬に壊滅状態になりました。
被爆後に、生き残った女学生によりここから原爆投下の第一報が伝えられています。
(そのときは原爆や新型爆弾という表現がなく、街が壊滅状態と伝えたのみでした)

f:id:reiwa00502:20210806194438p:plain

【中国軍管区司令部防空作戦室】

(原爆は国際法違反行為)
原子爆弾は、
非戦闘員である一般市民を攻撃した行為であり
国際法違反です。

詳細は下をクリックして御覧下さい👇

そして、石原莞爾が
「原爆を落としたトルーマンこそ悪人である」と
証言しています。

それに関しては下をクリックして御覧下さい👇


次の世代へ

2026年(令和8年)8月6日(木)。原爆投下から81年。

私は広島を歩き、4本の動画を撮影しました。

「祈りの列」

「原爆ドーム」

「平和の鐘」

「爆心地」

これらは、ニュース映像とは違う、私自身がその場所で見て、聞いて、感じた広島です。

被爆者の高齢化が進み、戦争を直接知る人が少なくなっています。

だからこそ、これからは「記録」がますます重要になると思います。