かつて東洋一と言われた陸軍大刀洗飛行場。
その跡地には、今も当時の名残が残っています。
(太刀を洗ったことから由来)
福岡県にある大刀洗(たちあらい)。この地名は、昔、神功皇后が西域平定に夫の仲哀天皇とともに九州入りしたとき、ここで太刀を洗ったという故事に基づきます。
その大刀洗に戦前、東洋一と言われた陸軍大刀洗飛行場がありました。
(東洋一の陸軍大刀洗飛行場)
大正時代から、大刀洗一帯は、陸軍の大刀洗飛行場や航空廠と技能者養成所、航空教育隊、航空機の工場などがあり、一大軍都として発展します。
【引用:太刀洗飛行場戦跡マップ 太刀洗飛行場をたどってより】
太刀洗飛行場では、太平洋戦争末期には、ここで特攻隊員が教育を受け、鹿児島の知覧へ旅立っていきました。
また終戦間際には大刀洗は大空襲を受けます。1945年(昭和20年)3月27日には、74機のB-29が約1,000発の爆弾を投下。31日には106機が1,400発の爆弾を投下しています。その犠牲者は1,000 人を超えるとも言われています。度重なる空襲で付近は壊滅的な被害をこおむります。
(大刀洗平和記念館)
かつての大刀洗飛行場跡地には大刀洗平和記念館があります。
ここには日本で唯一の陸軍九七式戦闘機、海軍零式艦上戦闘機三二型、さらに海軍局地戦闘機・震電の実物大レプリカが展示されています。また、大刀洗飛行場関係の資料約1800点が並んでいます。
もともとは個人運営されていましたが2009年(平成21年)10月3日に「筑前町立大刀洗平和記念館」として開館しました。
建物の外観は格納庫を模したカマボコ型です。
大刀洗平和記念館のブログ↓
(付近に今も残る当時の名残り)
平和記念館の付近には大刀洗飛行場関係の遺構が点在します。そのうち「煉瓦塀」、「飛行第四連隊(飛行学校)正門」、「時計台跡」、「監的壕」は 半径10m程度の位置に固まっていて、歩いて行ける距離です。そこで歩いてみました。
(①第五航空教育隊正門)
太刀洗平和記念館の正門は、1939年(昭和14年)に開隊した航空技術兵学校「第五航空教育隊正門」の正門を移築して使用しています。
(② 憲兵分遣隊舎の煉瓦塀)
道路沿いに綺麗な赤煉瓦の塀が見えます。
これは、飛行場ができた2ヶ月後の1919年(大正8年)12月に発足した久留米憲兵隊大刀洗分遣隊の赤煉瓦塀です。
久留米憲兵隊大刀洗分遣隊には、多いときは10人くらいの隊員がいて、大刀洗飛行場に関連する部隊や周辺の治安を担当していました。
赤煉瓦塀は100年以上前に造られましたが、今も民家の塀として活躍中です。
(③ 飛行第四連隊および飛行学校の正門)
赤煉瓦で作られた歴史を感じる門がありました。
この門は、大正8(1919)年に開隊した「飛行第四連隊」の正門でした。後に陸軍飛行学校の門になた。
当時の様子です。入り口に同じ門があるのがわかります。
この門を、飛行第四連隊の隊員が中国大陸や南方へ出撃する時にくぐり、また帰還してきたときもくぐっています。
その後、飛行第四連隊が移転した1940年(昭和15年)秋からは、その跡に開校した大刀洗陸軍飛行学校・本校の正門として使われました。
(④ 慰霊碑と西日本航空発祥之地碑)
赤煉瓦でできた門のすぐ隣には慰霊碑(左)と西日本航空発祥之地碑がありました。
白い慰霊碑は、かつて飛行第四連隊の本部庁舎前庭に時計塔として設置されていたものです。
戦後、慰霊碑に改修し、以後、追悼のシンボルとなっています。
陸軍の飛行場として発展した大刀洗ですが、1929年(昭和4年)からは、民間航空による国際線 (大刀洗-蔚山-京城-平壌-大連)も就航しています。
そのため西日本における民間航空発祥の地となっています。
(⑤ 監的壕)
さらに少し歩くと、監的壕がありました。
監的壕は、軍用機の射撃訓練の着弾を観測する建物で、大刀洗飛行場の南側にあった池のほとりに設置されていたのを移転しています。
この穴から、射撃訓練をする戦闘機や練習機の着弾を、観測員が双眼鏡で確認していました。
東洋一の飛行場があった大刀洗、
当時の遺跡も残っているので、是非足を運んで下さい。