この記事は、私的な内容ではありますが、
2025年(令和7年)年末に96歳で亡くなった母の人生を、
記録として残しておきたいという思いから書いています。 母が生きた96年は、日本の近現代史そのものであり、
「激動の時代を生き抜いた証」だと感じます。
■ 1929年(昭和4年)金融恐慌の時代に誕生
母が生まれたのは1929年(昭和4年)。
この年は、日本が金融恐慌に揺れ、不況が深刻化していた時代でした。
そんな厳しい社会情勢の中で、母の人生は始まりました。

■ 小学1年生で経験した「南京陥落」の祝賀行列
1937年(昭和12年)7月7日に日華事変(支那事変)が勃発し、日本と蒋介石率いる中華民国は全面戦争状態になります。
そして、その年の12月13日には、中華民国の首都・南京が陥落します。
近代史で、日本が対戦国の首都を陥落させたのは初めての出来事でした。
そのため、日本各地で祝賀行列が行われ、当時小学1年生だった母も参加しました。

■ 皇紀2600年の祝典で踊った「2600年の踊り」
1940年(昭和15年)は皇紀2600年。
母は祝典で両手に旗を持ち、「2600年の踊り」を披露しました。
その時の歌と踊りは、晩年までしっかり覚えていたほど印象深かったようです。

■ 太平洋戦争の開戦をラジオで知る
翌1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争が勃発。
母は、通学前のラジオの臨時ニュースで開戦を知り、 「日中戦争が終わらないうちに、さらに米英とも戦うなんて日本は大丈夫なのか?」 と幼いながらに不安を抱いたと語っていました。
■ 高等女学校では学徒動員で「風船爆弾」製造へ
母は高等女学校へ進学します。
地元は和紙の産地でした。
そのため、上級生は学徒動員で風船爆弾の製造に従事。 1学年下の母も「来年は自分たちの番だ」と覚悟していたそうです。

■ 終戦の年、空襲と機銃掃射の恐怖
1945年(昭和20年)になると空襲が本格的に始まります。
ある日、下校中に米軍機が急降下し、母たちは散り散りになって畑へ逃げ込みました。 同級生が機銃掃射で命を落とし、友人のおさげ髪が片方撃ち抜かれたという話も残っています。

■ 玉音放送と「灯火管制が解かれた夜の明るさ」
終戦の日、母は正午にラジオの玉音放送を聞きましたが、雑音が多くて、肝心の内容はよく分からず、 周囲の大人たちの反応で戦争が終わったことを知ったそうです。
その夜は、灯火管制が解除された最初の夜でした。
これまで、空襲を避けるため、部屋の電灯が漏れないようにと電燈の周りを覆っていました。
しかし、終戦とともにその必要がなくなり、部屋全体が明るくなりました。
外に出た母は、「こんなに明るかったのか」 と驚いた記憶が強く残っていると話していました。

■ 敗戦後の不安と進駐軍への恐怖
戦争が終わった時、母は16歳。 「鬼畜米英が来たら女子はどうなるのか」 と強い不安を抱き、進駐軍のジープが来たときは物陰からそっと覗いていたといいます。
■ 民主主義へ、そして高度成長の時代へ
終戦を迎えた夏休みが変わり、登校すると、学校教育は急速に民主主義へと転換します。
その後、母は
-
戦後復興
-
高度経済成長
-
バブル景気
-
平成
-
令和
・・・・ と、日本社会の大きな変化を体験してきました。
母の96年の人生を振り返ると、
戦争・復興・成長・変革 という日本の近現代史の流れを
そのまま体現していたように思います。
戦後80年という節目に母を見送った今、
その生きた証を記録として残すことが、
私にできる小さな供養だと感じています。
おかあさん
私を生んで育ててくれて
有難う!!
|
|





