11月27日、米軍に占領されたサイパン島を
第一御楯特別攻撃隊の零戦12機が空襲し
B29を次々と破壊します。
(サイパン島陥落)
1944年(昭和19年)6月サイパン島が陥落します。サイパン島と東京の距離はおよそ4600キロ、一方アメリカが開発したB29の航続距離は6000キロ。
ということでサイパン島から東京まで飛行可能となり、サイパン島はB29の爆撃基地になります。
下の写真は米軍占領後のサイパンの飛行場の様子です。日本空襲を控えたB29が、ズラリと並んでいるのが、わかります。
(B29サイパンより東京初空襲)
1944年(昭和19年)11月24日米軍に占領されたサイパン島などから、2.5トンの爆弾を搭載した111機のB-29が東京初空襲にむけ出撃します。攻撃目標は、日本の戦闘機を生み出していた中島飛行場武蔵工場でした。
(11月27日 陸海軍サイパンに報復爆撃)
サイパン島を出撃したB29が東京初空襲を行った3日後の11月27日、日本軍は、報復のため陸海軍共同でサイパンの飛行場を攻撃しました。
まず、27日未明。浜松を出撃した陸軍航空隊第二独立飛行隊の2機の四式重爆撃機(飛龍)がサイパン島のイズリー飛行場を爆撃します。この空襲で撃破4機と損傷16機の成果を挙げ2機とも生還しました。
(第一御楯特別攻撃隊出撃)
続いて、海軍。海軍はエース機の零戦を投入し機銃掃射でB29の破壊を考えます。
爆撃機は爆弾を落としたら攻撃が終了ですが、戦闘機なら運動性に優れている上に、
機銃掃射で弾がある限り連続して攻撃ができるという点に注目しました。
同日午前8時、硫黄島千鳥飛行場から大村謙次中尉率いる第一御盾特別攻撃隊の零戦12機と戦果確認用の彩雲2機が飛び立ちます。零戦は国籍マーク以外すべて黒色に塗装されていました。
当初の予定では、隊員らは敵爆撃機を銃撃した後、日本軍が保有していたパガン島に着陸し、潜水艦による救出を待つ予定でした。
しかし、作戦の打ち合わせ終了後、参謀の1人が、零戦隊員らに「パガンに戻るためには、零戦の燃料搭載量ではサイパン上空で5分間しか戦闘行動ができないが、どうするか」とたずねたところ、全員が「突っ込みます」と答えます。
米軍のレーダーに捕捉されないように海面すれすれの高度5mで1000km以上を飛行しますが、うち1機がプロペラに海面が当たり飛行不能となり離脱します。
その後、11機となった攻撃隊は午前10時40分、サイパン島に到着し、地上にいたB29へ銃撃を加えます。そして何度もサイパン上空で反復攻撃を繰り返し、最後は、そのまま地上の敵陣に突っ込みます。
大村隊長はゼロ戦の機銃掃射で全ての弾を撃ち尽くした後に、サイパンのアスリート飛行場に強行着陸し、拳銃を持って米軍陣地へ突入し米兵と銃撃戦を行い戦死しています。
第一御楯隊の攻撃では、途中で離脱した零戦も踏め12機すべてが失われましたが、米軍の記録では米軍の損害は「4機破壊炎上、6機大破、23機損傷」という大成果でした。
・・・ということで11月27日は、
第一御楯隊がサイパン島を攻撃し
B29を次々と破壊した日です。