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【応募1280人】昭和7年の紅一点|「料理番組は女性が担当した方がいい」を実現したアナウンサー松澤知恵

はじめに

昭和7年(1932年)、アナウンサーは多くの若者が憧れる人気職業でした。

1934年(昭和9年)に三省堂から出版された学習百科事典にはアナウンサーについて以下の説明が書かれています。

(出典:学習百科事典 昭和9年発行 国立国会図書館デジタルアーカイブス

https://dl.ndl.go.jp/pid/1238391/1/49)

私は先日、昭和7年のアナウンサー採用試験について調べ、実際の試験問題を紹介しました。

▶︎【実物試験問題あり】昭和7年のアナウンサー採用試験|倍率140倍超の難関試験を解いてみた

 

その記事を調べる中で、一人の女性の存在が気になりました。

応募者1280人の中から最終選考に残った34人。その中でただ一人の女性として新聞に大きく取り上げられた松澤知恵さんです。

当時の新聞は彼女を「愈々(いよいよ)婦人アナ出現か」「紅一点」と見出しでとりあげ、その動向に注目していました。

しかし調べてみると、彼女は単に「女性だったから話題になった」のではありませんでした。

最終試験前に取材した新聞記者に、「料理番組は女性が担当した方がよい」と語り、そのわずか2か月後、自らその夢を実現します。

今回は、昭和初期の放送界で活躍した松澤知恵さんについて紹介したいと思います。


第一章 応募1280人の中の「紅一点」

昭和7年5月、東京外国語大学でアナウンサー採用試験が行われました。

応募者は1280人。
「ここから選ばれるのは数名」ということで、当時としても驚くほどの人気職業だったことが分かります。
数度にわたる試験の結果、受験者は34人まで絞り込まれました。

そして新聞が注目したのが、その34人の中にただ一人残った女性受験者、松澤知恵さんでした。

当時はまだ女性が職に就くこと自体が珍しい時代です。
そんな中で超難関試験を勝ち抜き、最終選考に残った松澤さんは、大きな話題となりました。


第二章 松澤知恵さんとはどんな女性だったのか

当時、松澤知恵さんは東京・四谷に住む24歳の女性でした。

父の誠一さんは大阪三越販売部長や神戸支店次長などを務めた人物で、知恵さんはその娘として育ちました。

実は、アナウンサー試験へ応募したのは母・みよさんでした。

ラジオで職業婦人に関する放送を聞き、

「うちの娘も挑戦してみたらどうか」

と思い、願書を応募したそうで、知恵さん本人が応募したのではないそうです。

松澤知恵さんは、群馬の桐生で生まれ、その後大阪で過ごします。1930年(昭和5年)
2月には、大阪放送局(BK)で童話の朗読を放送した経験もありました。


第三章 「料理番組は女性が担当した方がよい」

最終試験を前に、松澤さんは、アナウンサーという仕事について興味深い考えを語っています。

「アナウンサーは女性にとって誠に適した職業だと思います。お料理の放送や子供の時間のアナウンスなどは、やはり女性がした方がよいと思っています」

現在では自然に聞こえるかもしれません。

しかし当時、このような考えを公に語る女性は決して多くありませんでした。

松澤さんは単にアナウンサーになりたいだけではなく、女性ならではの役割が放送にあると考えていたのです。


第四章 そして、その夢は実現した

松澤さんはその後、合格し正式に採用されます。この年の合格者は9名。倍率140倍の狭き門でした。

そして試験に合格し入局した年の1932年(昭和7年)7月7日。

彼女は『料理献立』というラジオ番組の担当となりました。

これは女性アナウンサーが料理番組を担当した最初期の事例の一つと言われています。

新聞記者に語った

「料理番組は女性が担当した方がよい」

という考えを、彼女自身が実際の放送で実現したのです。

わずか2か月前に語った夢が現実になった瞬間でした。


第五章 人気アナウンサーとなった松澤知恵

その後の松澤さんは人気アナウンサーとして活躍します。

毎日のようにファンレターが届き、一日放送を休んだだけで見舞い状が届いたというほどの人気ぶりでした。

また、上野駅からの中継放送では、運転士が彼女の声に聞き入ってしまい、列車の発車が少し遅れたという逸話まで残されています。

さらに当時は女性アナウンサーが担当することのなかった『経済市況』の放送も経験しています。

担当の男性アナウンサーが遅刻したため急きょ代役を務めたものでしたが、結果として女性アナウンサーとしては珍しい分野の放送を担当することになりました。

一方で苦労もありました。

和服姿で放送局にいると「だらだらして見える」と言われたため、初任給の大半を洋服代に使ったといいます。

昭和初期の女性アナウンサーには、放送局では、アナウンスとしての技術だけでなく身だしなみまで厳しい目が向けられていたのでしょう。


おわりに

松澤さんは途中でアナウンサーから退き、制作を受け持ち、定年まで働きます。
後年、松澤知恵さんはこう話しています。
「女性の先駆けだからと、無理したことはありません。ただ放送の仕事が好きだったのよ」

昭和7年、応募1280人の中から注目を集めた紅一点。
松澤知恵さんの魅力は、「女性初」や「紅一点」という言葉だけでは語れません。
自ら語った理想を自らの手で実現し、そして放送という仕事を心から愛した一人のアナウンサーだったのです。