
(出典:
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920426/1/259)
7月31日、日露戦争最後の戦いとなる
樺太の戦いが終了し、
日本軍が樺太全島を占領します。
(ポーツマス条約を有利に進めるために)
1904年(明治37年)に起きた日露戦争では、翌年になるとアメリカのルーズベルト大統領を調停人として戦争終結の動きが起きます。

(出典:
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920426/1/226)
1905年(明治38年)6月6日、アメリカは日露両国に「日露両国のみならず文明世界全体の利益のため、講和会議の開始を切望する」という内容のルーズベルト公文書を渡します。
6月7日、ロシアの皇帝ニコライ2世は、ルーズベルトの停戦勧告を受け入れるとの返事をします。ロシア皇帝は、日本軍により樺太が占領される以前に講和を実現したいと考えていました。
一方、日本軍は講和談判を有利に進めるために、樺太占領を考えます。
(日本軍24日で樺太占領)
7月7日に日本軍の第1次上陸部隊が樺太南部のアニワ湾岸に上陸を開始。
作戦を担当した新設の第13師団は、樺太防衛にあたっていたロシア軍が小規模であったため、さしたる抵抗を受けずに、16日にはコルサコフ方面司令官アルチシェフスキー大佐が降伏します。
さらに7月24日には、日本軍は北樺太アレクサンドロフ(日本名:落石-オッチシ)附近に上陸します。
下の写真は24日に樺太・女麗に上陸する日本軍です。

北樺太にはロシア軍長官リャプノフ中将以下5,000名を越える兵士がいましたが、ロシア軍はわずかに抵抗をしただけで樺太島の奥へ退却したため、日本軍はその日の夕方にはアレクサンドロフを占領します。
7月31日、ロシア軍長官リャプノフ中将は降伏勧告を受けて降伏しました。

(出典:
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920426/1/259)
こうして上陸から24日で日本軍は樺太全島を占領しました。

(出典:
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920426/1/255)
(ポーツマス会議)
樺太占領後の8月10日から日露戦争の講和会議=ポーツマス会議が始まります。

(出典:
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920426/1/260)
9月5日、ポーツマス条約が調印されます。賠償金は取れず、国民の期待外れの結果でした。
当時の記事です。

(出典:
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920426/1/264)
会議では、樺太を東西に横切る北緯50度線以北はロシアに返還されましたが、以南は正式に日本に割譲され南樺太は日本領となりました。
(唯一の国境標石)
樺太の南半分が日本の領土となったことで、1906年(明治39年)から1908年(明治41年)にかけて日露両国の国境を定める作業が行なわれます。

そして1908年(明治41年)9月に4基の天測境界標を置き国境を確定します。
標石は立方体。標石の一面には菊の紋章と「大日本帝国」の文字、その裏面には、ロシア帝国の双頭鷲紋章とキリル文字でロシア(РОССИЯ)と刻まれています。
日本が国境標石を設置したのは、歴史上この時だけです。

東京の明治神宮外苑には、
樺太国境画定標石のレプリカがあります。↓
・・・ということで7月31日は樺太全島占領の日です。



