日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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日本人が初参加した五輪、日本人選手の成績は?・当時の記事、写真で紹介 ~1912年(明治45年)ストックホルムオリンピック~ 

 

日本人が初めてオリンピックに参加したのは
1912年(明治45年)の
ストックホルム五輪です。
このとき出場した日本人選手の成績は
どうだったのでしょうか。

(日本五輪初参加)
日本人が初めて参加したオリンピックは、スウェーデンストックホルムで開催された五輪です。1912年「明治45年))のことです。
この大会は、参加選手は28か国2406名(女性は47名でテニス、飛込、水泳に出場)で、18競技102種目が行われました。

(初めて五輪に参加した日本人選手は2名)
オリンピックにはじめて日本人として参加したのは2人。
1人は陸上競技短距離の三島野弥彦です。

もう1人はマラソン金栗四三でした。金栗は当時のマラソンの世界記録を更新していました。

下は、その2人が選考された時の記事です。

(出典:新聞集成明治編年史 第十四卷 昭和15年出版」デジタル国会図書館

https://dl.ndl.go.jp/pid/1920445/1/288

 

新聞では、2選手を以下のように評価しています。
三島については、「到底勝ちみなし」と手厳しいものです。

(出典:新聞集成明治編年史 第十四卷 昭和15年出版」デジタル国会図書館

https://dl.ndl.go.jp/pid/1920445/1/300

 

(初めての五輪は苦労の連続)
日本人が初めて出場したストックホルムオリンピックですが、初めてと言う事で苦労の連続でした。
当時は五輪は現在のように注目されておらず参加費用も自費でした。金栗は、資金面でいったんは五輪参加を辞退しましたが、周囲の協力で基金を集め渡航資金を調達しました。

しかも日本は、五輪出場選手に対してスケジュール調整や選手の体調管理などのノウハウを持っていませんでした。

こうして開催地ストックホルムに向けて出発しましたが、これが大変な移動でした。

ストックホルムへの移動は、シベリア鉄道を使ってのの20日間近い長旅でした。

下に地図がありますが、ストックホルムは日本からこの距離です。この長くて遠い距離を陸路で行くのです。
飛行機で行くにも時間がかかりそうなのに、当時は飛行機がまだないので、延々と鉄道でいくのです。これはしんどいですよ。

こうしてようやくスウェーデンに着いたわけですが、スウェーデンは、オリンピック開催期間は白夜であったため、白夜に初体験の2人の日本人は睡眠不足になり、身体のリズムがおかしくなります。
また食べ物に関しても、米などを準備してなく、慣れないスウェーデン料理なので苦労します。
こうして慣れない異国でトレーニングを行う中、開会式を迎えます。

(7月6日開会式)
五輪の開会式が行われたのは7月6日土曜日。3万人の観衆の中、日本選手団は10番目に入場しました。

日本人選手団はわずか4人。選手団長はアジア初のIOC国際オリンピック委員会の委員の嘉納治五郎です。

下の写真は7月6日の開会式の日本選手団です。プラカードを持っているのは金栗、日本の国旗を持っているのは三島です。

二人とも白の半袖ユニフォームにパンツ姿で、三島は黒のソックス、金栗は黒足袋だったそうです。

(NIPPON)
日本の入場行進のプラカードをよく見ると表記が「NIPPON」となっています。「JAPAN」ではありません。
この「NIPPON」の表記を決めたのは、ストックホルム五輪日本選手団団長を務めた
嘉納治五郎です。
なお日本選手団がプラカードで「NIPPON」と表記したのは、この大会だけで、以降のオリンピックは全て「JAPAN」という表記です。

(三島選手)
短距離の三島は、7月6日、開会式直後に、100m予選でトップに1秒以上の差をつけられ敗退。200m予選も英米独の3選手に敗れ最下位。
400メートルは準決勝進出の権利を得たもの、右足の激しい痛みのために棄権しました。当時の日本人と西欧人の体力の差は大きく三島は「日本人には短距離は無理そうだ」と話しています。
下の写真は400メートル走予選の三島です。

下は三島選手の失格を報じる記事です。

(出典:新聞集成明治編年史 第十四卷 昭和15年出版」デジタル国会図書館

https://dl.ndl.go.jp/pid/1920445/1/314

(金栗選手)

ラソンでは当時の世界記録を27分も縮めた金栗は活躍が期待されました。
ラソンの京義は7月14日に行われました。
しかし、舗装された路面での練習に慣れてなく、ヒザを痛め、またマラソンの当日に迎えに来るはずの車が来なかったために、競技場まで走らなければいけなかった。というハンディがありました。

こうしてハンディを背負った形でマラソンが始まりました。

金栗はマラソンの途中で日射病にかかり意識を失って倒れ、近くの農家で介抱されます。そして目を覚ました時は、競技が終わってい翌日、7月15日の朝であり、マラソン中の行方不明=棄権扱いとなりました。
なお、このマラソンが出場者68名中、完走は半分の34名で、亡くなる者も出るという過酷なレースでした。

(出典:新聞集成明治編年史 第十四卷 昭和15年出版」デジタル国会図書館

https://dl.ndl.go.jp/pid/1920445/1/315

 

日本人初の五輪出場に関してはこれがお勧めです👇

 

 

 

・・・ということで
日本人が初めて参加した五輪のストックホルム大会では
日本人は思うような活躍はできませんでした。