
明治が始まったとき、
東京築地には外国人居留地がありました。
外国人居留地が設けられていた場所は、
現在の中央区明石町のあたりです。

https://dl.ndl.go.jp/pid/2542226/1/2
江戸時代、幕府は鎖国をしていましたが、1854年に幕府はアメリカとの間に日米和親条約を締結しました。
これが契機となって、日本は鎖国を解き、1858年の日米修好通商条約をはじめとして、英国、フランス、ロシア、オランダと修好条約を締結しました。
この条約により、開港場に居留地を設置することが決められます。
それに従い、江戸(東京)と大阪の開市、さらに、箱館(現:函館) 、横浜、長崎、
神戸、新潟の5港を開港して、外国人の居住と貿易を認めます。
(築地に外国人居留地)
その1つが東京築地です。
築地は、幕末は隅田川沿いに町人地があるだけで、ほとんどが武家屋敷でしたが、明治維新後、武家屋敷は処分されます。
そして、1868年(明治元年)11月19日に、東京築地の明石町地区一帯の約10ヘクタールを外国人居留地とし外国人をこの地に住居させました。
さらに21日には交易所を開設し市民が自由に外国人と交易できるようにしています。
大名屋敷が立ち並んでいた築地の一帯が、煉瓦造りの街となったのです。
下は1869年(明治2年)に発行された東京築地鉄炮洲景に描かれた築地の外国人居留地の地図です。


上記2つはhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1305878/1/6
集落にはホテルや税関や家、外国人向けの日本人店、さらには遊郭まであったことがわかります。
築地は開市場としては発展しませんでしたが、公使館・領事館・ミッション本部・教会・学校などが建てられ、新しい文化や風習を伝えました。なお居住者の多くは宣教師や教師、医師などの知識人だったそうです。
築地に置かれた公使館やキリスト教会の母国は9カ国に達し、最盛期には300人以上の外国人が暮らしていました。
下の写真は、築地居留地にあった「聖三一大聖堂」です。
1874年(明治7年)に発行された「耶麻登道知辺 東京の部 上」には以下のように記されています。


https://dl.ndl.go.jp/pid/764436/1/32
下は時期は不明ですが、書籍「改正東京名細記」に書かれた築地外国人居留地の様子です。
(出典:改正東京名細記https://dl.ndl.go.jp/pid/764206/1/8)
また1890年(明治23年)2月に発行された「東京名所図絵」には築地居留地は以下のように書かれています。

(出典:「
https://dl.ndl.go.jp/pid/764239/1/39)
(名残り)
明石町にある聖路加国際病院の敷地には、築地居留地にアメリカ公使館が存在していたことを物語る石造物があります。

さらに、聖路加病院から徒歩5分の場所にある中央区明石小学校校庭のフェンスの外側の角地に、「外国人居留地跡」がありました。

また同じ場所には、居留地時代のイギリス積みの煉瓦が保存されていました。

ガス街灯もありました。



1868年(明治元年)に築地外国人居留地ができると1974年(明治7年)にアメリカ公使館が移転し1890年(明治23年)まで約16年間設置されていました。
公使館は、居留地一・二・二十一・二十二番にあり、クリーム色のペンキが塗られた木造2階建ての洋館だったようです。
(終焉)
東京にできた「外国」築地は、様々な文化や風習などをもたらしましたが、その一方で、外国人居留地内は一種の治外法権であることから外人による不法行為も相次ぎました。
1899年(明治32年)条約改正の実施に伴って、各地の居留地は一斉に回収(返還)された。
さらに1923年(大正12年)に起きた関東大震災で、居留地中央通りに立ち並んでいたレンガ造りの洋館は崩壊しました。
・・・ということで
11月19日は東京築地に外国人居留地が誕生した日です。





