
幕末の1864年8月14日、馬関戦争の講和交渉が成立。
この交渉の中で、外国側は長州藩に対し
彦島の租借を求めていましたという話があります。
そしてこの要求を退けた人物が高杉晋作です。
交渉で『古事記』を語り続け租借話を立ち消えにした
── そんな有名なエピソードが残っています。
しかしこの「古事記暗唱」の話は、
一次史料には出てきません。
一方で、彦島租借要求は記録にしっかり残っています。
この記事では、史実と伝説の両面から、
この講和交渉を解説します。
■ 彦島が外国領になりかけた!?
山口県下関市の彦島。
実はここが、かつて 香港のように外国の租借地になりかけたと言われています。
幕末、馬関戦争の講和交渉で、外国が長州藩に彦島を要求したというのです。
もしこれが実現していれば、彦島は香港や九龍半島のように長期間外国支配下に置かれていた可能性があります。
ただし、彦島を要求したのが英国1国なのか、それとも4カ国全部なのかは不明です。
■「租借」か「割譲」か? 要求は本当にあったのか?
彦島に関する英国の要求は、文献によって「租借」と書かれたり「割譲」と書かれたりします。
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租借:一定期間だけ領土として貸し出す
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割譲:完全に領土として差し出す
しかし、外国側の公式議事録や、通訳を務めたアーネスト・サトウの記録には、この要求は出てきません。
一方、講和の時の長州藩の通訳を担当したのが伊藤博文ですが、伊藤が1909年(明治42年)7月4日に、軍艦満州の船の上から彦島を見た時に「彦島租借は高杉が断固拒否した。下関海峡を通って、あの彦島を見るたびに、高杉の熱弁を思い出す。彼がいなかったら、この島は今頃外国の手にあったのだろう」と回顧しています。
その時の回顧の内容は、1910年(明治43年)11月に出版された「藤公余影」にも記載されています。ちなみに、このタイトルの「藤公」とは伊藤博文の事です。
その個所を全文ノーカットで紹介します👇


(出典:「藤公余影」明治43年11月出版:国立国会図書館デジタルアーカイブス
https://dl.ndl.go.jp/pid/781043/1/63)
この伊藤博文の回顧に準じ、
このブログでは「彦島租借」と表現します。
■ 攘夷の中心・長州藩と馬関戦争の発端
馬関戦争の背景を簡単に振り返ります。
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ペリー来航後、日本は鎖国を終え諸外国と貿易を開始
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しかし孝明天皇は攘夷を強く望み、幕府に実行を迫る
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1863年5月10日、幕府は攘夷を約束
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攘夷運動の中心が長州藩
長州藩が面する関門海峡は京都・大阪につながる海運の要衝であり外国船も多数通航していたため、長州藩は砲台を整備
■ 1863年5月、長州藩が外国船を砲撃
現在、亀山八幡宮(山口県下関市)がある場所には、幕末は亀山砲台がありました。

1863年 5月11日午前2時、久坂玄瑞の号令で亀山砲台に設置されていた大砲からアメリカ商船への攻撃を合図する砲弾が発射されます。
これをきっかけに外国船への砲撃が始まります。
攻撃を受けたアメリカ商船は関門海峡外へと逃走します。
その後、フランス・オランダ艦船に対しても同様に砲撃を加えました。

【亀山八幡宮にある亀山砲台跡の説明版】
■ 翌年、四国連合艦隊が下関を報復攻撃
1864年8月5日、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国連合艦隊の合計17隻の軍艦が下関に来襲し下関市街を砲撃します。
下はそのときの下関沖の写真です。沖に四か国連合艦隊の軍艦が見えます。
戦闘は、8月5日から4日間続き、長州藩は砲台を一方的に破壊された長州藩の敗北に終わります。
外国軍は下関市の一部と彦島の砲台を砲撃し占拠しました。

【みもすそ川にある案内板より】
この一連の戦いを馬関戦争と言います。馬関とは関門海峡に面した下関の昔の呼び名です。
下関市にある関門海峡に面した みもすそ川公園には、馬関戦争で使用した長州藩の5門の砲台のレプリカが設置されています。
真ん中の1門は、100円硬貨を投入すると砲撃音と煙がでます。

■ 8月8日長州藩降伏、全権は高杉晋作
1864年(元治元年)8月8日、四国連合艦隊の報復攻撃を受けた長州藩は降伏し、講和使節の使者に24歳の高杉晋作を任じました。
長州藩が欧米と戦いを繰り広げている時に、高杉は脱藩をした罪で投獄され戦場にはいませんでした。長州藩は高杉を釈放し、この戦闘の講和交渉を任せることとします。

(「近世名士写真」国立国会図書館ウェブサイトより)
■ 8月8日午後、高杉晋作、四国連合艦隊旗艦で交渉へ
8月8日午後、高杉は家老の息子である宍戸刑馬と偽名を名乗り長州藩代理として交渉に臨みます。
高杉は四国連合艦隊旗艦のユーライアラス号に乗り込んで、連合軍代表であるイギリスのキューパー司令官との談判に臨みましだ。
この時、長州藩の英語の通訳には、長州藩がロンドンに留学させていた、いわゆる長州ファイブのうち数日前にロンドンから呼び寄せたばかりの井上俊輔(のちの伊藤博文)と井上聞多(馨)が随行します。

交渉はユーライアラス号で3回行われました。
8月8日、8月10日、8月14日です。
連合国側から提示された条件は以下の5つ。
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外国船の通航の自由
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石炭・食料・水の供給
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悪天候時の船員の上陸許可
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下関砲台の撤去
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賠償金300万ドル
■ そして問題の「彦島租借」要求が出される
8月14日、最後の談判日、外国側が「彦島を租借したい』と申し出たといわれています。
下は、その年の11月の英国の軍人F・ブラインが描き、本国の陸軍省に提出した下関周辺の地図です。
地図中央に浮かぶ島には「HIKUSHIMA」と書かれています。ここが「彦島」です。
(出典:英国公文書館National Archives)
この時の全権大使高杉は、2年前にアヘン戦争に敗れ租借地になっていた上海に渡り、
2カ月間滞在し現地の惨状を見ていました。
そのため、領土の租借に断固反対します。
■ そして伝説の「古事記暗唱」へ
ここで有名なエピソードが登場します。
「彦島を渡せ!!」と言う要求に対し、高杉が取った行動が奇策です。
高杉は突然、
「そもそも我が国の始まりは、高天原にまず成り出でた神は天之御中主神で──」
と 『古事記』の冒頭を延々と語り始めた のです。
不意を突かれた通訳の伊藤俊輔が戸惑うと、
「俊輔、訳せ!」
と一喝。伊藤も困惑しながらも、訳を続けます。
こうして、延々と続く、訳が分からない意味不明の神話の暗唱に相手は困惑し、やがて疲れ果て、ついには彦島租借の話は立ち消えとなったと語られています。
これは、相手の主張をはねのけるのではなく、相手が嫌になるくらい全然関係ないことをしゃべり続けるという作戦です。
この話は、司馬遼太郎の「花神」に書かれています。

■ 彦島は外国国領にならず
馬関戦争の交渉で彦島租借の話はなくなり、高杉晋作は日本の領土を守ったのです。
もし彦島が租借されていたら香港や九龍半島の様になっていた可能性があります。
■ 14日交渉成立
14日に交渉が成立します。
300万ドルの賠償金については、巨額すぎて長州一藩では支払い不可能なことに加え、一連の外国船への砲撃は幕府が朝廷に約束し諸藩に通達した攘夷実行の命に従ったまでと高杉が粘り強く主張したこともあって、幕府が支払うことで決着します。
この金額は高額すぎて江戸幕府が半額、残りの半額は明治政府が支払うことになります。
彦島の租借は立ち消えとなりました。
■ しかし──この古事記エピソードは史料に出てこない
さて、ここからが重要です。
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伊藤博文の記録には古事記の話は一切出てこない
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英国側の記録にも出てこない
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アーネスト・サトウの記録にも出てこない
つまり、 古事記暗唱は後世に広まった“伝説”の可能性が高い のです。
一方で、 彦島租借要求は、外国側の資料には一切ないのですが、交渉に参加した伊藤博文の記録としては確実に存在しています。
ひょっとしたら、この彦島租借は、講和条件の際の、公の会議の場での提案ではなく、非公式な形で外国側から打診や威嚇の形で飛び出したのかもしれません。
8月14日に講和が成立した馬関戦争(下関戦争)
彦島租借要求は伊藤博文の記録に残っていますが、
高杉晋作の古事記暗唱は記録には出てきません。
しかし、もし彦島が租借となったら、
香港のように外国の支配下に置かれていたのです。




