奇兵隊の隊士400人が、2年余り
ともに生活し訓練に明け暮れた陣屋跡
❝奇兵隊陣屋跡❞があります。
(東行庵から徒歩20分)
奇兵隊陣屋跡は東行庵から歩いて20分位の場所にありました。
ここは、1867年(慶応3年) 8月から1869年(明治2年)11月の解散まで奇兵隊が本陣を置き訓練に明け暮れました。
(奇兵隊陣屋完成す)
1865 年(慶応元)4 月に約300 名の奇兵隊士が吉田へやってきました。
そして陣屋が完成するまでは、吉田町の寺社が隊士の仮の宿として使用されることになり庄屋の末富家には本営として幹部隊士が起居していました。
そして、1867年(慶応3年) 8月、この地に兵舎,稽古場、講堂を揃えた陣屋が完成します。
ここでは1869年(明治2年)11月の解散まで400人の隊士が訓練に明け暮れました。
隊士は朝6時に起床し、講堂で8時まで漢字を学び、9時からは調練をするという日課でした。
外出は隔日で、しかも5人一組で吉田地区のみの散策が許されただけと言うストイックな生活だったようです。
奇兵隊は、江戸幕府が倒れ新政府が樹立されると、戦闘集団であるその役目を終えます。
そして1869年(明治2年)11月27日、奇兵隊をはじめとする長州藩の諸隊に、解散命令が出され、奇兵隊は解散します。ということで奇兵隊最後の場所がここ吉田の地でした。
(奇兵隊誕生から吉田移転まで)
1863年5月10日、長州藩が、下関の亀山砲台から関門海峡を通る外国船を砲撃します。攘夷です。
【長州藩の外国船への砲撃について書いたブログ記事】
外国船に砲撃した長州藩は、外国軍艦の報復・来襲に備えます。
(「近世名士写真」国立国会図書館ウェブサイトより)
6月7日、高杉晋作が、下関市にある廻船問屋の白石正一郎邸で、身分に因らない
志願者で集めた兵隊組織・奇兵隊を結成します。
武士以外の人を取り込んだ武装組織は当時は非常に珍しい戦闘集団でした。
(奇兵隊結成の地)
JR下関駅から5分ほど歩いた下関市竹崎町にある中国電力下関営業所の敷地内は、
かつての白石正一郎邸跡地で、かつ奇兵隊結成の地でもあります。
当初は、ここ白石邸に奇兵隊の本陣が置かれていました。
なお奇兵隊が結成された家の持ち主の白石正一郎は、高杉晋作、久坂玄瑞、坂本龍馬、西郷隆盛など、400人もの維新の志士たちを資金面で援助した、明治維新の影の功労者です。
奇兵隊結成の時、白石正一郎は52歳、この時、正一郎は莫大な金銭面の援助のみならず、自身も弟の廉作と共に入隊し,会計係となります。
そして家財をつぎ込みながら経済的な援助を行い、倒幕運動に捧げます。
(晋作が奇兵隊を率いたのはわずか3か月)
徳川時代の平穏な世の中が続いたことで堕落した武士よりも、強い志を持った庶民の方が頼りになると考えたのです。
また、高杉はこう語っています。「有志の士をつのり一隊を設立し、名付けて奇兵隊と言わん。いわゆる正兵は総奉行の兵なりこれにたいし奇兵とせんと」。
幕藩体制下の当時、武士のみからなる正規軍の対義として、「奇兵隊」と名付けたのです。
奇兵隊の最初の総督となったのは創立者の高杉晋作ですが、わずか3ヶ月で総督を辞任し、以後は山形有朋、赤禰武人が率います。
長州藩には、この奇兵隊の他、力士で構成された力士隊、商人で作った足市隊、大工でつくった撰鋭隊、神主で作った神威隊、漁師達で作った遊撃隊も登場します。
(赤間神宮に本拠地を移す)
奇兵隊は、最初は外国艦隊からの防備が主な目的で、その本拠地は下関市の白石正一郎邸に置かれました。
やがて、目的が討幕へと目的が変わり、さらに規模が拡大したため本拠地を赤間神宮に移します。
【赤間神宮について書いたブログはここです】
なお、奇兵隊を金銭面で支えた白石正一郎は、実家の商家が破産した後は
1865 年(慶応元)4 月、約400 名の奇兵隊隊士が吉田へやってきます。
6月、江戸幕府によって第二次長州征伐が行われますが、高杉晋作は海軍総督として
奇兵隊をはじめ諸隊の指揮をとり大村益次郎のの戦略のもと江戸幕府軍を撃退します。
(東行庵にある奇兵隊の墓)
この吉田の奇兵隊陣屋跡から歩いて20分程度の距離には、高杉晋作の墓がある
東行庵があります。ここには、奇兵隊の志士のお墓もあります。
【東行庵について書いたブログはココ】
(櫻山神社の招魂場)
下関市にある櫻山神社には、奇兵隊志士などの招魂場があります。
この神社は高杉晋作の発案で作られました。
【櫻山神社について書いたブログはココ】
奇兵隊の事ならこのドラマがお勧め。
討幕に大きな役割を果たした奇兵隊。
その隊士が2年余り、
訓練に明け暮れた最後の場所が下関の吉田です。