島根県出雲市斐川街には
幅約60m、長さ約600m以上の滑走路が現存しています。
これは大社基地のもので
戦争遺跡としては日本最大級です。
(大社基地)
出雲大社で知られる島根県出雲市。
出雲市斐川町には、終戦時点では西日本最大の軍事拠点であった海軍の飛行場・大社(たいしゃ)基地がありました。
1945年(昭和20年)3月、海軍は、この地に海軍航空隊の基地を建設することになり、米子にある美保海軍航空基地予科練習生や、鰐淵鉱山の労働者、さらに付近の住民や学童など数千名が動員され、その事務所や宿舎として周辺の国民学校校舎が徴発されます。
(滑走路)
大社基地の主滑走路は全長1700メートル、全幅120メートルの20万4000平方メートルで、そのうちの長さ1500メートル、幅60メートルの9万平方メートルの部分は当時としては珍しいコンクリート舗装でした。
(今も残る滑走路)
この滑走路は今も残っています。
現在は、主滑走路のうち、幅約60m、長さ約600m以上が遺構として現存しています。これは戦争遺跡としては日本最大級です。
大社基地にはこの2本の滑走路のほか、燃料庫、弾薬庫、高角砲陣地など様々な施設がありました。
(爆撃機・銀河配置)
大社基地には、3人乗りで 800㎏爆弾や魚雷を搭載する爆撃機の銀河が移されてきます。
7月 5日には、宮崎航空基地にあった飛行隊の司令・飛行長以下、司令部関係者も移ってきました。
さらに7月初旬には、石川県小松基地に配備予定の人間爆弾「桜花」を 装備する「神雷攻撃隊」が、大社基地にあった海軍航空隊を母体として編成されることになりました。
また同年 6月頃からは、大社基地に隣接して直江基地の建設も始まりました。直江基地はレーダーに映りにくいと言われた九十三式中間練習機(通 称「赤とんぼ」)が特攻出撃するための飛行場でした。
7月 15日には大社基地・直江基地とも完成します。
東日本に配備された「銀河」部隊が空襲によって壊滅したため、大社基地は国内唯一の銀河部隊として本土決戦に臨もうとしていました。
銀河の作戦行動は1945年(昭和20)7月25日、8月7日、 8月8日の3回でした。
大社基地の滑走路は今も道路として活用されています。
<<大社基地跡地への行き方>>
日本最大級の基地・大社基地。
今は当時を物語るものはほとんどありません。
しかし、滑走路は今も、道路として残っています。