平安時代の宮中を舞台にしたドラマ「光る君へ」。
44話は、「望月の夜」です。
ではストーリーを見ていきます。
(彰子の思い)
土御門に入った皇太后彰子は、父・道長といっしょにいました。彰子は、子供が出来ない弟の頼通が新しく妻をもらったとしたとしても、名ばかりの妻になるし、そもそも子ができるとも限らない。だから誰も幸せにせぬと言い切ります。
傍で、まひろは黙ったまま聞いています。
(妍子の思い)
彰子の妹である妍子も、父の策略に使われ酒に溺れる日々です。
あるとき、妍子が「けざやかだのぅ」と禎子内親王と美しい布地を撫でていたところ、父の道長がやってきました。
妍子は道長に対し「父上は禎子が生まれた時、皇子ではないのかと、いたく気を落とされたと聞きました」と責め「父上の道具として、年の離れた帝に入内し、皇子も産めなかった私の唯一の慰めは、贅沢と酒なのでございます。お帰りくださいませ。私はここで、この子とともにあきらめつつ生きてまいりますゆえ」とまで言います。険悪な父と娘関係です。
(頼通の思い)
三条天皇の娘を妻にするという提案をうけた頼通は断固としてこれを拒否します。
さらに「父上と母上が私にお命じになるなら、私は隆姫を連れて都を出ます。藤原も、左大臣の嫡男であることも捨て、2人きりで生きて参ります」と言い放ちました。
どうしようにも困った道長は、頼通が重病にかかった、伊周の祟りだと言いふらし、帝の娘を頼通が妻とする策を回避します。
(三条天皇の策)
これを知った帝は悔しがります。ここで実資が「敦明親王を東宮にすることを条件として譲位する」という「奥の手」を授けます。
ある夜、帝は皇后の娍子と一緒にいました。
「お上、きれいな月でございますよ」と言う皇后の娍子は、啜り泣きます。
それを聞いた帝は「泣くな。朕が譲位する時は、敦明が必ず東宮となる」と語りかけます。
(後一条天皇即位)
1016年(長和5年)、大極殿において後一条天皇の即位式が執り行われました。
後一条天皇は道長の娘の子、つまり孫です。
この状況に、穆子は娘の倫子に、「我が家から帝が出るなんて、道長様は大当たりだったわ」と大喜び。
同時に道長は幼い後一条天皇の摂政となりました。
(為時は在宅出家を決意)
まひろの父・藤原為時は、すっかり老いぼれたと感じ「孫の賢子も立派に育った。まひろも内裏で重んじられ、いとには福丸もいる。だから、そろそろ出家したい」と切り出します。余生は、ちやはと惟規の菩提を弔いつつ過ごしたいというのです。
孫の賢子は、出家したら寺に行くのかと尋ねますが、為時は在宅出家をします。
「それでは何も変わらないではないですか」と賢子が突っ込むと為時は「じじが遠くの寺に行ってしまった方がよいのか?」と聞き返し、賢子は即座に否定します。
為時は、賢子には、ずっと自分のそばにおらず、母上のように内裏にあがってはどうかと勧め、よい女房になりそうだと言います。
夜、為時は、まひろの前で、自分は官人に向いておらず苦労をかけ通しだったと振り返ります。
まひろは、越前での誠実な仕事ぶりに感銘を受けたと言い、改まって「父上、長らくご苦労さまでございました」と言いました。
(摂政道長)
天皇が後一条天皇に代わり、帝のおじいさんである道長は幼い帝の背後に座り、政でどう答えたらよいのかをささやいて助言します。
そんな道長にのやりかたに対し、「内裏の平安を思うなら、左大臣をやめろ」と言われます。道長は「何度もさきの帝に譲位を促したが、今度は俺がやめろと言われる番なのか」と考え込みます。
(道長の思い)
そんな道長が、執筆に励んでいるまひろのもとにやってきて、摂政と左大臣を辞めると言い出します。まひろは、摂政になってからまだ一年にもなっていないのでは!!??と驚きます。
道長は「摂政まで上っても俺がやっておっては世の中は何も変わらぬ」と言います。
まひろは、頼通に摂政を譲るのかと問うと道長はそうだといいます。。
まひろは「頼通様にあなたの思いは伝わっているのか」と問いかけます。
「俺の思い?」
「民を思いやるお心にございます」
道長は「どうだろう」とどうも良くない返事です。
それを聞いてまひろは、「たった一つの物語さえ、書き手の思うことは伝わりにくいのですからしかたございませんけれど」と言い、道長は「俺の思いを伝えたところで何の意味があろう。お前の物語も人の一生はむなしいという物語ではなかったか? 俺はそう思って読んだが」と答えます。
まひろは「されど道長様がこの物語を私にお書かせになったことで、皇太后様はご自分を見つけられたのだと存じます。道長様のお気持ちがすぐに頼通様に伝わらなくても、いずれ気付かれるやもしれませぬ。そして次の代、その次の代と一人でなせなかったことも時を経ればなせるやもしれません。私はそれを念じております」と言い、道長は「そうか、ならばお前だけは念じていてくれ」と言い、まひろは、はいと答えます。(道長の物語を書いて欲しい)
するとそこへ倫子がやって「お二人で何を話されていますの?」と尋ねます。
「政の話だ」と道長が返すと、倫子は「政の話を藤式部にはなさるのね」と返しています。それを聞いた道長は皇太后の考えを知っておかねば政はできぬと言います。
倫子は「そうでございますわね。藤式部が男であればあなたの片腕になりましたでしょうに。残念でしたわ」と言うのでした。
道長が去ると、倫子はまひろに、清少納言が『枕草子』を残したように、道長の華やかな生涯を書物にして残したいと言い出します。倫子は今すぐに答えなくてよろしいと微笑みます。道長の物語=栄華物語ですね。
(頼通、摂政に)
道長の嫡男・藤原頼通が後一条天皇の摂政就任の宴が催されました。頼通が「皆の力を貸して欲しい」というと、教通はそんなことでは父上にいいようにされてしまうと言います。
その光景を見て、倫子は「父上あってのあなた方だ」と諌めます。
道長の娘で頼通の妹の威子が兄上のお役に立ちたいといいます。すると頼通が「早速だか威子、入内してくれぬか?」と言います。
それを聞いた威子は、帝は十歳、彼女は十九歳。年齢差もあるので困惑します。その様子に母の倫子は「帝も数年すれば大人になられる」と言います。
それに対し、威子が、帝が大人になるころには、私は三十近くになると反論すると、それを聞いていた妹の嬉子が「私が入内する」と言い出しました。彼女は帝と一歳差なのです。
しかし頼通は、嬉子には嬉子の役目があると即座に拒否します。
入内を嫌がる威子に、倫子は帝が一人前になるのを待ち、最初の女子となり、帝のお心をしかとつかむようにと言い、それが使命だとまで言います。このやりとり、まったく本人の意志などお構いなしの世界です。
こうして威子は、翌年の春には入内します。
(三条院逝去)
三条院は危篤となり、その枕元には娍子と敦明親王がいます。三条院は「闇でない時はあったかのう娍子、闇を共に歩んでくれてうれしかったぞ」と言い、娍子は「お上、お上はいつまでも、私のお上でございます」と返します。
そして三条院は42歳で世を去りました。
敦明親王は父という後ろ盾を失ったことから、東宮の座を降ります。そして道長の孫である敦良親王が東宮となります。
(道長頂点へ)
藤原道長は、天皇が孫、東宮も孫、さらに娘を見ると彰子が太皇太后、妍子が皇太后、威子が中宮・・・という状況になりました。
1018年10月16日夜、威子が中宮となったことを祝う宴が土御門にて開催されます。
しかし、妍子は「父上と兄上以外、めでたいと思っておる者はいない」とキツい言葉をはきます
宴では、頼通と教通の兄弟が舞い、そこへまひろもやってきます。
道長は実資に、摂政に盃を勧めるように頼みます。道長から勧められた酒が座を回ってゆきます。
道長は実資に「今宵はまことによい夜だ。歌を詠みたくなった。そなたに返の歌をもらいたい」と声をかけます。しかし、実資は「私のような者にはとてもとても」と辞退します。それでも道長は「頼む」と言います。
そして道長は歌を詠みます。
「この世をば わが世とぞおもう 望月の かけたることも なしと思えば」
これを聞いた実資は「そのような優美なお歌に返す歌はございません」と言い、
元稹(げんしん)が菊の歌を読んだとき、白居易は深く感じ入って返歌せず、元稹の歌を唱和したという話を持ち出し、これをふまえ、皆で道長の和歌を唱和しようと呼びかけます。
こうして男性陣が道長が詠んだ歌を唱和します。
この時、道長にとって、「天皇たちは娘婿姉=義理の息子」」になり、生まれてくる孫は皇位継承者。さらに息子は関白という朝廷の最高権力者・・・権力者としては、もうたまりませんよね。
(補足・その後)
ドラマではここまでですが、その後も補足します。
この翌年、1019年に、道長の嫡男の頼通は貴族として最高位の関白になります。
その後には、道長の最後の娘・嬉子も後朱雀天皇に嫁ぎます。
こうして最終的には、藤原道長の娘の合計4人が天皇に嫁ぎました。
整理しますと・・・
彰子は一条天皇に嫁ぎました。
姸子は三条天皇に嫁ぎます。
後一条天皇の弟の後朱雀天皇には、嬉子がそれぞれ嫁いでいます。
こうして藤原道長は、自分の娘を天皇に嫁がせて皇室と絆を深めます。
そして一条天皇→三条天皇→後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇の時代に勢力を保ちます。
これまでも娘を天皇の妃にした人は蘇我氏などがいますが、自分の娘を3人以上も
天皇に嫁がせたのは藤原道長が史上初です。
こうして、藤原道長は天下を取り頂点にたったのです。
・・・次回に続く・・・