平安時代の宮中を舞台にしたドラマ「光る君へ」。
第47話は「哀しくとも」。
では、ストーリーを見ていきます。
(まさかの周明!!)
今回のスタートは、高校の日本史で習った「刀伊の入寇」(といのにゅうこう)です。ちなみに、年号の憶え方は、刀伊の入寇⇒刀伊が来る⇒刀伊くる⇒1019る・・と簡単に覚えることが出来ます。
刀伊とは、中国東北地方から東部の松花江中流域で農耕や牧畜をして暮らしていた女真族です。その刀伊が玄界灘を越え九州を襲撃してきたのです。
藤原隆家は、36歳のときに、眼病治療のために眼科の名医がいる九州へ下りたいと願い出て、大宰権帥に任じられました。そして今回の刀伊の入寇が起こったのは,太宰府にきて5年後のことでした。
松浦に向かうまひろたちは港に向かって海岸を歩いています。
途中、周明は「松浦に行って思いを果たしたら、必ず大宰府に戻ってきてくれ。そのときに話したいことがある」と言い、まひろは、うなづきます。う~ん,意味深。愛の告白か??
・・・と、そのとき刀伊の賊達の襲来です。そこに双寿丸たちが駆けつけ賊を蹴散らし、その場で乱闘が始まります。
周明はまひろの手を引き逃げますが途中、まひろが足がもつれて転倒します。
すぐに周明が手をだし、まひろを引き上げようとします。
そのとき・・・敵の矢が周明の心臓に命中し周明は仰向けに倒れます。
えっ!!まさか周明!!??
ええええええ!!周明!!!この状況にパニックになるまひろですが、なんとか乙丸に連れられ、号泣しながらその場を離れます。
(頼通の対応)
4月17日、大宰府より頼通のもとに解文が届きました。
刀伊の賊が壱岐や対馬にやって来て殺人や放火を行い、馬牛を斬り老人や子供が亡き者にされ、成人男女は穀物とともに船で連れ去られたとのことです。
その場にいた藤原行成は、このことを太閤・道長に知らせたほうがいいと進言しますが頼通は、父・道長に心配をかけるべきではないと言いこれを制します。
(実資の対応)
隆家は朝廷に黙殺されたときのことを考えて、実資にも文を書いていました。
事情を知った藤原実資は、すぐに土御門邸を訪れ、道長に壱岐の状況を報告します。
すでに10日経っており敵は都を目指しているかもしれないと心配します。
道長は、国家の状況と同時に壱岐にいるまひろのことを心配します。
(陣定)
公卿達の会議である「陣定」(じんのさだめ)が開かれました。
左大臣・顕光が居眠りをしていたため、代わりに公季が上卿を行います。
刀伊の族が九州を攻めてきたことに関して意見を問うと、資平と、能信、通任は、わからないと答え、頼宗、教通は討つべしと。
行成は朝廷は武力を振るってはいけない、祈祷して邪気を払うのが良い。といい、
公任は大宰権帥が解決すべきといい、俊賢は様子を見るべきといい、斉信は攻め入ってくるものは討つべしと、意見はバラバラです。
そこに実資が遅れてやってきました。実資は、「山陽道、山陰道、南海道、北陸道を固めるべき、都の武者だけでは足らないので各地の武者を集めるよう手配すべし」と積極的に意見を出しました。しかし公卿達や藤原頼通は危機感がないのか事の重大さが伝わりません。この状況に対し頼通は、様子見だと判断しました。
事態を深刻にとらえている藤原実資は陣定の席で危機感のない頼通達に怒りを感じます。
(私は摂政)
道長は、外敵が侵入して略奪や戦闘をしているという知らせを受けたのに、その対策をしない頼通を叱り「一大事に何を考えているのか」と責めます。
しかし、頼通は、「自分は摂政だ」と聞き入れません。しかたなく道長は「備えは固めてくれ」と頭を下げました。
(撃退)
4月26日になり、ようやく藤原実資のもとへ、藤原隆家からの報告が届きます。
その文には、敵を対馬の先まで追い払ったということが書かれていました。この内容を聞いた藤原道長は安堵しました。
実資は隆家が朝廷も武力を持たねばならないと言っていたことを納得しています。しかし、道長は武力に頼る世になってはいかんといい、平将門の乱以降、朝廷は軍を持たなくなったが、80年が経ち異国の賊に襲われようとは思ってもいなかったと言います。
実資は、「前例にこだわっていては政はできない」と言って出ていきました。
道長は、まひろの安否を知りたいので、隆家に「消息を確認して欲しい者がいる」といいます。しかし、すぐに取り消します。
(恩賞)
藤原隆家は、刀伊撃退の勲功者への褒賞を願う文を朝廷のもとへ送ります。
6月末。刀伊撃退の功労者である隆家たちの褒賞について、陣定が行われました。しかし公卿たちは恩賞に消極的です。行成は13日の戦は、朝廷に関わりないことだと言います。公任も朝廷の命無き戦、放っておいていいと言います。
実資は、国のために戦ったのだから褒賞を与えるべきであり、そうしないとこの先に奮戦するものがいなくなると主張します。
しかし、藤原行成や藤原公任は、「朝廷は討伐を命じていなかったから、刀伊討伐は私闘にすぎない」と冷たい反論をします。
こうして国のために戦って敵を撃退したというのに最終的に褒賞を受けたのは、たった一人だけでした。
実資が道長に陣定の結果を報告していると、そこに公任がやって来ました。
公任は、隆家は敵ではなかったのか、次の脅威となる隆家が「これ以上力をつけられないようにするために反対した」といいます。
そこに斉信がやって来ました。斉信は何があっても道長の味方だと慰めます。
「和漢朗詠集」を読む公任は、行成の字の見事さを褒めます。そして公任は口論になったことを悔やんでいました。
(肥前へ)
隆家は、朝廷から届いた知らせを書いた文を読んで、朝廷の冷たい態度に落ち込みました。
そして刀伊撃退のために戦った者たちにお礼を述べ、武者たちが国司となって戦えるよう朝廷に働きかけるともいいました。
また、平為賢を肥前守に推挙しました。
双寿丸は、まひろに為賢とともに肥前に行くことになったと報告します。
まひろは武功を立てることは人を殺めることではないのかと問いますが、双寿丸は民を守るのが武者だ、と反論します。
(京都へ)
目の前で周明の死を目撃したまひろは、立ち直れず意気消沈しています。隆家は苦しくても悲しくても人生続いていく、仕方がないと吐露します。
隆家は大宰権帥の役目を終えて都へ戻ることとなりました。
隆家は、まひろに一緒に京都に戻るかを聞きます。これを近くで聞いていた乙丸は、「ここにいてはいけません。きぬに会いたい、帰りたい」と珍しく声を荒げ感情を出して叫んでいます。
こうした京都に帰りたいと強く願う乙丸の希望を受け、まひろも同行し京都に戻ることにしました。
(帰還)
1020年(寛仁4年)1月、大宰府の政庁に滞在していたまひろは、藤原隆家と共に都に戻りました。まひろの実家では、家族一同がまひろの無事を喜びました。乙丸はきぬに、大宰府で買った土産の紅をプレゼントします。
まひろの娘・藤原賢子は、まひろの書いた「源氏物語」に感銘を受けたと言います。
まひろから、双寿丸が肥前に向かって旅立ったことを知った賢子は、「女光る君になろうかしら」と、発言をし、さらに「誰の人生も幸せを実感できるのは束の間。それならば、自分が思うように自由に生きたい」と語りました。
(土御門邸)
まひろは、太皇太后・彰子に帰還を報告するため土御門邸を訪れます。
久しぶりに会った彰子に旅の話を聞かせてほしいとせがまれますが、まひろは旅でのことは気持ちがまとまらず話できないと断りました。
さらに彰子からは、物語にしたら読ませてもらうといいますが、これも断ります。
また、女房として仕えてくれと請われます。彰子は、賢子は若く相談役にはならないから、まひろに仕えてほしいと言います。
ここで、まひろは、出家して剃髪した道長と遭遇します。お互い顔を合わせ、言葉もないまま、見つめ合います。そのとき、女房のひとりが、藤原道長の妻・源倫子がまひろを呼んでいると伝えにやってきます。
倫子はまひろをみると「あなたと殿はいつからなの?」といきなりのビンボール級の質問をします。さらに「私が気づいてないとでも思っていた?」と追い打ちをかけます。まひろの表情が固まったところで物語は終了します。
次回はいよいよ最終回です。