
【現地写真と一次資料】
上海天長節爆弾事件|
爆破の前後の写真・警察発表文・尹奉吉判決文、
そして最期
1932年(昭和7年)4月29日、上海。祝賀式典の最中、突如として爆音が響きました。
日本の要人が集まる会場で起きた爆破――それが、上海天長節爆弾事件です。
本記事では、
爆破前後の現場写真と警察・外事警察・判決文の一次資料をもとに、事件の実態とその結末を時系列で検証します。
■ 事件概要
1932年(昭和7年)4月29日、この日は昭和天皇の誕生を祝う「天長節」でした。
中国・上海の虹口公園では天長節祝賀式典が行われていました。
当時は第一次上海事変で日本軍と中華民国が戦闘が起きていましたが、3月24日からイギリス総領事館で停戦交渉が開始されていて、この時期は停戦協議中でした。
その停戦協議中の4月29日の天長節という日本軍および在留邦人にとって重要な日に、式典を狙った爆弾テロが発生します。
■ 【現場写真】爆破前の会場


式典には軍関係者や外交官などが出席し、会場は祝賀ムードに包まれていました。
しかしこの時すでに、爆弾は会場内に持ち込まれていました。
上海に拠点を置く大韓民国臨時政府の首班・金九が尹奉吉を攻撃実行犯として差し向けたのです。下の写真は犯行前の4月26日に、対極旗の前で宣誓書と手りゅう弾を持ってポーズをとる尹奉吉です。

式典の会場は上海で有数の大きな公園であり、また、出入りする群衆も多かったため完全にチェックするのは難しい状況でした。
尹奉吉は、日本語が上手く日本人に見えたので、水筒や弁当に擬装した爆弾を持って入場することに成功していたのでした。
👉そして、爆発が起きます。
■ 【現場写真】爆破後の現場


爆発は式典の最中に発生。会場は一瞬で混乱状態に陥りました。


■ 爆破の瞬間
午前10時、式典開始。
午前11時40分ごろ、天長節祝賀の礼砲が発射されます。
そして、海軍軍楽隊の演奏で君が代が斉唱されました。
当時、このような式では、君が代は2回斉唱されていました。
そして、2度目の「さざれ石の」というところで尹奉吉が爆弾を投げつけます。
水筒の形をした爆弾が白川大将の足元に、もう1つの弁当の形をした爆弾が上海日本人居留民団行政委員長で医師の河端貞次の足元に投げつけられました。
そして水筒や弁当に偽装された爆弾は、投げ込まれた直後に炸裂し、要人たちは吹き飛ばされました。
■ 被害
この爆発により
・河端貞次(即死)
・植田謙吉(重傷)
・野村吉三郎(右眼失明)
・重光葵(右脚切断)
・村井倉松(重傷)
・友野盛(重傷)
また、白川義則大将は後に死亡しました。
犯人の尹は、その場で「大韓独立万歳!」と叫んだ後に自殺を図ろうとした所を取り押さえらえます。
■ 【一次資料①新聞号外】
天長節に起きた大事件。号外です。



■ 【一次資料②】事件1週間後の警察発表
この事件は、当時は「上海爆弾事件」とも呼ばれていました。
下記は上海に於ける出先官憲が 事件1週間後の5月6日に 上海爆弾事件犯人に関し 新聞各社に発表した内容です👇


(出典:https://www.digital.archives.go.jp/img/832229#1)
この資料の内容によれば、
・1932年4月29日 午前11時40分頃に爆発
・犯人は群衆の中から爆弾を投擲
・その場で取り押さえられた
と記録されています。
さらに爆弾は
・水筒型
・弁当箱型
の2種類が使用されていたとされ、巧妙に偽装されていたことが分かります。
■ 【一次資料③】外事警察による事件まとめ
下は、1932年(昭和7年)6月に外事警察(公安の外国担当)がまとめた「外事警察報第119号」に書かれた事件の概要です。

(出典:外事警察報第119号:https://www.digital.archives.go.jp/img/1010329#1)
外事警察が事件を整理した公式記録には
・式典中に爆弾が投擲されたこと
・会場が群衆で混雑していたこと
・要人が多数被害を受けたこと
など、事件の全体像が簡潔にまとめられています。
特に、犯行が群衆の中で実行された点は、警備の隙を突いた計画的な犯行であったことを示しています。
■ 【一次資料④】尹奉吉の死刑判決文
その場で捕まった犯人の尹奉吉は、裁判にかけられます。
下の文書は、尹奉吉に対する判決を記録したものです。

(出典:https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C05022017600#1)
内容は
・尹奉吉を死刑に処す
・爆発物(手榴弾)を証拠として押収
・軍法会議で審理
といった点が明記されています。
この事件は通常の刑事裁判ではなく、軍法会議によって裁かれたことが分かります。
■ 事件の結末
犯人の朝鮮人・尹奉吉は死刑宣告され 石川県金沢市軍法会議拘禁所へ移管されて留置。 12月19日7時27分、銃殺刑が執行されます。
■ 事件の現場にいた「2人のその後」
この事件で負傷した人物の中には、後の歴史に深く関わる2人がいました。
一人は、野村吉三郎。
事件後、駐アメリカ大使として日米交渉を担当し、太平洋戦争開戦直前の外交の最前線に立ちました。
一人は、重光葵。
この事件で右脚を失いますが、1945年(昭和20年)9月2日、戦艦ミズーリ号の甲板で、日本の降伏文書に署名することになります。
■ 歴史の「始まり」と「終わり」にいた2人
・野村吉三郎 → 戦争の開始(日米交渉)
・重光葵 → 戦争の終結(降伏調印)
この2人が、同じ爆破事件の現場で負傷していたのです。

1932年(昭和7年)4月29日、昭和天皇の誕生日、
その式典で起きた爆発事件。
その現場にいた人物たちは、
やがて太平洋戦争という大きな歴史の流れの中で、
重要な役割を担うことになります。
上海天長節爆弾事件は、単なるテロ事件ではなく、
その後の歴史へとつながる
一つの転換点だったのかもしれません。





