1947年(昭和22年)5月1日、2日、
東京裁判は異例の出張法廷を山形・酒田に開きました。
ここに元関東軍参謀・石原莞爾がリヤカーで現れ、
「最大の戦犯は、原爆を落としたトルーマンだ!」と
衝撃の一言を発します。

(満州事変の首謀者・石原莞爾、戦犯にならなかった)
1946年(昭和21年)5月3日から極東軍事裁判=東京裁判が始まります。
このとき、戦犯となってもおかしくないある人物が東京飯田橋の東京逓信病院に入院していました。彼の名は石原莞爾。

石原は1931年(昭和6年)9月18日の柳条湖事件に端を発した満州事変のときの、
関東軍作戦主任参謀であり満州全土を制圧した首謀者とされていました。
下は満州国新京にあった関東軍司令部です(1935年:昭和10年撮影)
そのために、東京裁判では満州事変について審議に関して石原への尋問が不可欠でした。
しかし石原はなぜか戦犯にはなりませんでした。
1946年(昭和21年)石原は病床に訪れた東京裁判の判事に対し「米国のトルーマン大統領が第一級の悪人である。国際法では、非戦闘員は爆撃するなと規定があるにもかかわらず、非戦闘員を何十万人も殺した。これは国際法違反である。B29で非戦闘員を爆撃し、広島と長崎に原爆を落としたではないか。オレは東京裁判で、これを話してやるから、オレを戦犯にしろ」と話していました。

石原は極東軍事裁判で戦犯として法廷に立ち、「空襲や原爆投下を行った米国の大統領トルーマンこそが戦争の最大の犯罪人である」と発言しようと考えていました。
しかし、そんなことを許すはずがありません。
それでは勝者の問題点が露呈されてしまい裁判にはなりません。
そのため石原を戦犯にはしませんでした。
ただし、石原を東京裁判の証人として呼び、石原と仲が悪かった東條英機元首相を死刑に導くような証言をさせようと考えていました。
石原はその後、療養のため郷里の山形に戻ります。
(東京裁判酒田臨時法廷という異例の展開)
1947年(昭和22年)、石原は、5月に東京裁判で板垣征四郎の弁護側証人として出廷を要請されました。
しかし石原は、「お前たちが来い!」と主張します。石原は膀胱癌で出血が激しく、動かすには危険な容態だったのでした。
そこで極東裁判所は異例の措置として山形県酒田市の坂田商工会議所の2階を、東京裁判酒田臨時法廷として特設します。

4月29日夜、東京から8両の特別夜行列車でニュージーランド代表のノースクロフト判事以下、検事、弁護士・通訳その他で総勢85人が東北に向かい翌30日午前7時、酒田市の酒田駅に降りたちます。
一方、石原は酒田から20キロ北方の吹浦の西山農場にある自宅に静養中で、医師から絶対安静を命ぜられていました。
しかし、東京裁判の一行が到着したその夕刻、酒田に到着し、その夜は市内のホテルに宿泊します。
(石原将軍、リヤカーに乗って登場)
1947年(昭和22年)5月1日と2日、東京裁判酒田臨時法廷で板垣征四郎の弁護側証人として石原莞爾元中将を調べるための臨時法廷が開かれました。
石原莞爾は戦闘帽を被り、着流しの着物姿で青年が引くリヤカーに乗って、法廷がある酒田商工会議所に現れました。
ちなみに、このリヤカーをひく青年の1人が、のちに極真空手を開く大山倍達極真会館総裁で、当時は東亜連盟に入っていました。東亜連盟とは石原莞爾の指導のもとに石原構想の実現を目ざした団体です。

東京裁判酒田臨時法廷に、判事、検事、軍属のカメラマン、タイピスト、記者などがいるなか、石原莞爾は看護婦に付き添われ登場します。
(石原莞爾の正論の数々が法廷を凍りつかせた)
まず裁判長は「訊問の前に何か言うことはないか」と聞きます。
すると石原は「ある。満州事変が発端で起こった此度の戦争の首謀者は俺だ、満州事変はすべて自分である。錦州爆撃にしても、満州建国立案にしても皆自分である。それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない何故俺を裁かないのだ」と主張します。
これを聞いた裁判長も検事も「石原を戦犯として取り調べるのではない。証人として調べるのだ。証人はそんなことを言ってはいけない。こちらから訊ねることに対し、『イエス』か『ノー』かを答えればよい」と言い、そこから検事の訊問に移りました。
また石原が裁判長に、「アメリカは日本の戦争責任を遡って追及しているが、いったいいつまで遡るつもりだ!」と問うと、裁判長は「日本の行った侵略戦争全てです。出来る事なら日清・日露戦争まで遡りたい。」と答えます。
すると石原は「ならばペリーを連れてこい!日本は鎖国してたんだ。それを無理やり開国させたのはペリーだ!」と答えます。
裁判長が「あなたは日本の21倍のシナに本気で勝てると思っていたのですか、私には到底無謀な計画のように思えてなりません。」と問うと、「勿論だ。戦争は数の勝負ではない。もし私が戦争の指揮をしていたら、裁判長、あなたの席には私が座り、ここにはあなたが立っていたはずだ。」と言いました。
そして裁判長は石原に「あなたは東條英機と対立があったと聞きますが。」と言うと
石原は「対立はしていたが、それは思想上のものではない。何故なら東條の馬鹿には思想なんてものは無い。」と答えます。
(石原が挙げた“最大の戦犯”とは──裁判長の期待を裏切った一言)
さらに裁判長は「今回の戦争で、一番罪深い戦争犯罪者、それは誰だと思われますか?」という質問をします。
この質問には、石原の口から、戦争犯罪者として東條英機の名前が挙がることを期待しました。もしそうなれば、重要証言として確実に裁判で東條を死刑にできる大義名分がとれるからです。
そう期待した裁判長に対して、石原元中将はこう答えます。
「それはアメリカ大統領のトルーマンである。何の罪もない民間人を20万人も原爆で殺しまくり、それが正義だといえるのか?トルーマンこそ最大の戦犯だ!」と・・・。
この発言を聞いた裁判長は裁判記録の破棄を命じ、そのまま裁判を終結させました。
こうして酒田臨時法廷は5月2日正午に閉廷となりました。
閉廷後の午後1時半から、石原は外国記者団とのインタビューに応じたあと、午後4時過ぎに車で国道10号を北上し自宅へ戻りました.
(石原莞爾、終戦の日に静かに息を引き取る)
石原莞爾元は、1949年(昭和24年)の春に肺炎を患ってしまい病状が悪化し、その年の8月15日、終戦の日に60歳で生涯を閉じました。
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石原の発言は、裁判記録からは消されても、
歴史からは消えない。戦争の責任とは何か──
沈黙の法廷が、今もなお問いかけています。





