特攻基地慰霊の旅・・
祖国や故郷のために自らの命を捧げた先輩方に対し感謝と追悼の想いを込め、鹿児島をおとずれ
特攻基地に足を運びました。
今回紹介するのは
鹿児島県の陸軍知覧特攻基地です。
(陸軍の飛行訓練基地から特攻基地へ)
1942年(昭和17年)、陸軍が鹿児島県の知覧に飛行場を建設して運用を開始しします。当初は太刀洗陸軍飛行学校知覧分教所で、少年飛行兵や学徒出陣の特別操縦見習仕官らが飛行訓練をする場所でした。
1944年(昭和19年)10月、海軍がフィリピンレイテ島沖で神風特別攻撃隊「敷島隊」を出撃させます。それにつづき陸軍も特攻隊を編成し出撃させます。
1945年(昭和20年)に入ると戦況は悪化し、知覧飛行場は沖縄と距離的に近いことから特攻基地となります。
ちなみに特攻隊のうち、九州から出撃した部隊は「振武隊(しんぶたい)」、 台湾から
出撃した部隊は「誠飛行隊(まことひこうたい)」と呼んでいます。
特攻作戦は、重さ250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈める作戦でした。
3月、第二十振武隊(一式戦闘機「隼」)、第二十三振武隊(九十九式軍偵察機)の出撃を
皮切りに、連日のように次々と沖縄を目指して、ここ知覧からの出撃が続きます。
知覧を飛び立った特攻機は薩摩半島南端にある開聞岳を通過し600キロ離れた沖縄を目指します。沖縄までは、1時間半から2時間程度かかりました。
陸軍の沖縄戦に向けての特攻機数は640機でそのうち400機以上が知覧から飛び立っているといわれます。
知覧飛行場を出撃した特攻隊員のうち439名が戦死しました。彼らの年齢は17歳から32歳で平均年齢はなんと21.6才です。また陸軍の全特攻戦死者1036名のうち、全員の半数近い439名が知覧基地から出撃しています。残りは都城・万世・台湾各基地、健軍です。
(知覧特攻平和会館)
知覧にある特攻平和会館には、特攻隊員の遺影1,036柱と彼らが特攻直前に書き残した
遺書や手紙、遺品約6,000点などが展示されています。
なお館内はロビーと零戦展示室のみ撮影可能でした。
近くの鹿児島湾海中から引き上げられた海軍の戦闘機ゼロ戦が展示されていました。
このほか館内には、陸軍四式戦闘機「疾風」の実物も展示されています。四式戦闘機・疾風は、大東亜決戦機ともいわれ陸軍が力を入れて開発した戦闘機です。
(屋外展示)
再現された三角兵舎が記念館の横に建てられています。
三角兵舎とは、特攻隊員の宿舎のことで、松林の中に半地下壕をつくり、 屋根の上に杉の木をかぶせてカモフラージュをしていました。 地上には三角の屋根の部分しか見えていないことから三角兵舎と呼ばれました。
各地から集まった特攻隊員たちは、この三角兵舎で2~3日過ごし、沖縄の空へと出撃しました。なおこの三角兵舎は再現で実際に三角兵舎があったのは、飛行場から少し離れた松林の中でした。
1974年(昭和49年)に建立された特攻勇士の像「とこしえに」です。
1941年(昭和16年)12月に開校された、大刀洗陸軍飛行学校知覧文教所(のちに教育隊)の正門もありました。
陸軍の主力戦闘機だった一式戦闘機隼もありました。(復元)
【 かごしま県観光サイト 知覧特攻平和会館】
<<知覧特攻平和会館への行き方>>
車で行くのをお勧めします(駐車場有り)
鹿児島空港から高速道路で約1時間15分
鹿児島中央駅から約1時間5分
住所:鹿児島県南九州市知覧町郡17881番地 0993-83-2525
9:00~17:00(入館16:30まで) 年中無休
知覧から出撃し祖国のために散華された方々に対し
追悼いたします 合掌