太平洋戦争中、ガダルカナル島で
約2万5千人が戦死や餓死でお亡くなりになりました。
このうち、福岡歩兵第124連隊の将兵3,179名の慰霊祭が福岡縣護国神社で行われました。
(餓島)
南太平洋に浮かぶイギリス領ソロモン諸島の1つで太平洋戦争の激戦地の1つ、
ガダルカナル島では1942年(昭和17年)8月から翌年の2月まで日本軍とアメリカ軍の激しい戦いが繰り広げられました。
ガダルカナル島は短縮してガ島とも呼ばれますが、この島で戦った日本兵が、食糧難で飢餓に苦しんだため飢餓の「餓」から餓島とも呼ばれました。
ガ島に上陸した3万人余のうち戦死・病死・餓死者は約2万5千人に上ったという記録があります。このうち、福岡歩兵第124連隊の将兵3,179名が犠牲になっています。
2023年(令和5年)4月16日(日)、福岡県福岡市にある福岡縣護国神社で、11時半から ガダルカナル島慰霊祭があったので参加してきました。
この福岡縣護国神社は、1943年(昭和18年)4月に、福岡県内にあった4つの護國神社を
統合し現在地である福岡城址南側の旧福岡城外練兵場跡に遷座しました。
下の写真は1939年(昭和14年)の福岡縣護国神社ができる前の周辺の航空写真です。
写真左半分にある広大な土地が練兵場で、ここの一部が護国神社になります。
中央の建物は武徳殿、右の池は大濠公園です。
(ガ島の戦いから81年、今年の出席者は4名)
ガ島の戦いから今年・2023年(令和5年)で81年という事で、当時20歳の方でもご存命なら101才です。
今回のガ島会慰霊祭の参加者には、生き残りの方が参加されず、参加者は、おっさんを含めて4人でした。
式は11時半から本殿で行われました。
本殿は式典中は撮影禁止なので、式終了後に外から撮影しました。
慰霊祭は
①開始の太鼓(上の写真左にある大きな太鼓)
②祓いの言葉奏上
③玉串・及び参列者をお祓いで清める
④隆神の儀・・ガダルカナル島で犠牲になった3197柱を迎える儀式
⑤献饌(けんせん)の儀・・・宮司が瓶子の蓋を取る
⑤祝詞奏上
⑥榊を持っての巫女さんのみたま慰の舞(みたまなごめのまい)
昭和天皇の皇后・香淳皇后が作成した歌「やすらかに ねむれとぞおもふ 君のため いのちささげし ますらをのとも」にあわせ巫女が舞いました
⑦参列者玉串奉納
⑧昇神の儀・・・神様をお送りする儀式
⑨終了の太鼓
…と言う流れで20分ほどで終了しました。
おっさんは、ガダルカナルの戦いで志半ばで亡くなられた先輩方に対し敬意と追悼、
感謝の気持ちを抱き、玉串を奉納しました。
式典終了後、盃1杯の御神酒を飲み、記念品を頂きました。
記念品は、護国神社の御神酒でした。
(ガダルカナル島戦士之碑)
今回、ガダルカナル島慰霊祭が行われた福岡縣護国神社から徒歩15分程度の場所に谷公園があります。ここはかつて陸軍省が管轄する福岡陸軍墓地でした。
この一角にガダルカナル島 戦士之碑があります。
この碑は1973年(昭和49年)3月に、亡くなった方の死を悼みガ島会によって建立されました。
石の玉・・。
この石の意味を福岡市役所に電話で尋ねましたが不明とのことでした。
なんか意味があると思いますが・・・
その石の球の前に置かれた透明の箱状の物。
桜の花があり「靖國の櫻」と書かれていました。
石碑の左には碑文が刻まれていました。
碑文
昭和十七年八月三十日より翌十八年二月七日に至る間
英領ソロモン群島ガダルカナル島ルンガ飛行場の争奪をめぐる米軍との戦いに
食なく弾薬尽きて尚勇戦し要地アウフテン山を
よく死守した福岡歩兵第百二十四連隊の将兵三千百七十九柱の霊
此の地に静まる
昭和四十九年三月吉日建立 ガ島会
祖国のために命を捧げられた先輩方がいた。
その犠牲や無念の上に
現在の私たちの生活や暮らしがある。
そのことは忘れずに継承していこうと思います。