日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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2024年(令和6年)6月29日(土)99歳と95歳のシベリア抑留経験者の話を伺う!~全国強制抑留者協会主催:シベリア抑留者の労苦を語り継ぐ集い~

 

終戦直後、ソ連によって元日本兵や民間人が
シベリアやモンゴルなどに移送されて
過酷な労働を強いられ、
およそ5万5000人が犠牲になったとされる
「シベリア抑留」。
その体験者2名の話を伺ってきました。

※今回、全国強制抑留者協会様の御協力を頂きました。有難うございました。


2024年(令和6年)6月の最終週に、福岡市でシベリア抑留経験者が体験談を語る会が
あるというので参加してきました。

まず、シベリア抑留の状況についての説明がありました。
1945年(昭和20年)8月9日、日ソ中立条約が一方的に破られ、ソ連が日本に参戦します。

ポツダム宣言では、武装解除した日本兵の日本への復帰を保証していましたが、ソ連はそれを無視し、元日本兵や民間人をシベリアやモンゴルに移送し、過酷な強制労働を行います。この中には、電話交換手や看護婦など女性も含まれていました。

抑留された方々は、「極寒での寒さ」「重労働」「食料不足による栄養失調」「いつ故国に帰ることができるか見当がつかない精神的不安」・・この4つに苦しめられました。

彼らが住まされたのは、マイナス30度になる厳しい環境の中、最初はラーゲリと呼ばれるみ収容所に入れられました。
ラーゲリは、最初はテントを張っただけの粗末な小屋で、寒くて戦友と裸で抱き合い、お互いの体温で温めてしのいだそうです。吐く息でテントに氷の層ができていたそうです。
やがて、自分たちで丸太小屋を作らされ、収容所は少しはましなものになりました。
しかし、土を見るのは年に3か月程度であとは雪の世界。
朝起きると冷たくなっている人が続出し、収容所から少し離れた場所には遺体を埋める穴が掘られていました。この穴も捕虜が掘って作ったものです。

食事は、粗末で黒パン300グラム=1キレと具がない塩味の薄いスープだけ。毎日が飢餓との戦いで、多くの人が餓死しました。

捕虜は強制労働を強いられました。そのほとんどが森林伐採バム鉄道(第二シベリア鉄道)の建設でした。手作業で森を切り開き、土地を整備しレールを敷いていきます。
栄養不足の状態で極寒の中での作業、しかも厳しいノルマがあり、達成できないと食事が減らされる状況でした。

また、ソ連は、東京ダモイ(東京に帰れる)と言いつつ、捕虜を列車に乗せ、違う場所に連れて行き、強制労働を行いました。捕虜の方はいつ日本に帰ることができるかと不安の日々でした。

・・・・こうして、抑留された5万人以上が命を落としています。

ソ連が行った捕虜の強制労働はポツダム宣言違反及び、ハーグ陸戦条約違反)
日本が受諾したポツダム宣言では「武装解除した日本兵を家庭に帰す」と記載されており、またハーグ陸戦条約の第二章「俘虜」には「人道を持って取り扱う事」(第四条)「その労働は過度でなく」(第六条)「平和克復の後はなるべく速やかに、俘虜をその本国に帰還させなければならない。」(第二十条)と記されています。
しかし、いずれもソ連はそれを無視した扱いです。
(貴重な証言)
戦争が終わり、昭和も平成も終了し21世紀になり令和の時代となった今、抑留経験者の方々も少なくなってきました。

今回=2024年(令和6年)6月29日(土)現在、福岡県には体験談を語り継ぐ活動を続けている元抑留者は今回話を伺った佐藤さんと伊藤さんの2人のみです。

(シベリア抑留の状況:佐藤隆さん)
佐藤さんは1929年(昭和4年)3月8日生まれで、話を伺ったときは95歳でした。

佐藤さんは、満州青年開拓義勇団として1943年(昭和18年)10月に満州に渡ります。
終戦の時は17歳。最初はニコライエフスクと言う場所に行きました。
ここで、ロシアの刑務所を利用したラーゲリに収容され、ここに100人が押し込まれ人の体温で暖かかったそうです。
食べ物が毎回量が少なく飢餓との戦いでした。
ここでの作業は、2メートルも雪が深く積もる中、雪をかきわけ森林を伐採していました。1日8時間働きますが、作業が遅いなどの難癖をつけらえ食事を抜かれることも多かったそうです。
(だまし)
1947年(昭和22年)6月にソ連兵が「ダモイ」というので帰国できると思い込みます。そしてナホトカに行くと、引き揚げ船が見えたので、これで日本に帰れると喜んでいたら、ここから2か月間列車に乗せられ沿海州一帯を列車に泊まりながら移動し、ロシアの鉄道の線路の保守作業をさせられたそうです。

また、ロシアは、佐藤さん曰く「かっぱらいと、詐欺、泥棒のオンパレード」で物がしょっちゅう盗まれていたそうです。

11月30日に引き揚げ船でナホトカから2晩かかり舞鶴に着いた時、婦人会が「ごくろうさま、おかえりなさい」と言われたとき涙があふれたそうです。

ウクライナ抑留者の伊藤康彦さん 99歳)
続いて話を伺ったのは、伊藤康彦さん。1925年(大正14年)4月生まれ、御年99歳です。

伊藤さんは学徒出陣で陸軍に入り、野砲隊としてピョンヤンに行きます。1945年(昭和20年)の終戦の時は20歳。ソ連が進駐します。このとき、重厚なソ連の戦車を見た時。「これは戦争に負けるなあ」と感じたそうです。

しばらくして、ソ連兵に「ダモイ」と言われました。「日本に帰れる」と喜びます。
ナホトカに行き、ここで裸になり女医の検査を受けます。この検査は日本兵を体格で選別し、日本兵の行き先を決めていたのです。
伊藤さんは身体が小さかったのでウクライナへ行きます。移動は列車でした。列車は日中は普通に使用しているので、ダイヤがない夜中にだけ移動していたそうです。こうして夜だけ列車で移動し1か月かけてウクライナに到着します。
伊藤さんはロシア語ができたので通訳を担当し、外国の映画が好きだったことでソ連将校と仲良くなります。
収容先のウクライナの収容所では、黒パン一切れと具がないスープでした。具がないスープは、のぞき込むと自分の目が映るので「目ん玉スープ」と呼んでいたそうです。
ウクライナはドイツとの戦争で街が破壊されてるので、壊れた街の修復やレンガのかたつけ、レンガ作り、レンガのねんど掘り、硝石をトロッコ溶鉱炉で運ぶ作業、一般家庭での修理、庭の手入れなどをしていたそうです。
一般家庭に行く場合は、その家の人が昼食事を食べさせてくれるし、卵などのお土産もくれたそうです。
ウクライナ人は抑留者に対し親切だったそうです。

(射殺された友人)
1947年(昭和22年)11月、ソ連兵から「ダモイ」と言われ、ナホトカに行く引き揚げ船を待っていた時の事です。
夜、仲間と酒を飲んで歌を歌っている時、友人が小用で席をはずします。
しかし、その数分後、友人は射殺されます。
小用のために、柵の近くまで行ったのを、監視のソ連兵は逃亡しているとみなし、確認もせず射殺したのです。

そして伊藤さんは引き揚げ船に乗ります。引き揚げ船に乗ると、米兵がいて喋る言葉が英語だたことから、これはダマシではなく本当に帰国できると安心しました。
そして無事、舞鶴に到着します。舞鶴に到着する直前に船から鳥居を見た時は嬉しかったそうです。

(ブレスレット)
伊藤さんは現在、右腕にブレスレットをしています。このブレスレットには23個のドクロがあります。

これは、亡くなった伊藤さんの修猷館高校(「福岡県ナンバー1の進学校)の友人たちの事だ層です。

舞鶴引き揚げ記念館)
お二人が引き揚げてきたのが日本海側にある京都の舞鶴港です。
ここは、主に旧満洲朝鮮半島やシベリアからの引揚者・復員兵を迎え入れる港となり、1945年(昭和20年)10月7日に最初の引揚船“雲仙丸”が入港します。
以後1955年(昭和33年)9月7日の最終引揚船“白山丸”の入港まで約66万人もの引揚者・復員兵を迎え入れてきました。

その舞鶴には、舞鶴引き揚げ記念館があり、ここには抑留された方々の生活が再現されています。

シベリア抑留に関して、コレがお勧め!

 

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ロシアは、1993年(平成5年)に、
当時のエリツィン大統領が

日本を公式訪問した時、
抑留を「非人間的な行為だった」と認め、
日本側に謝罪しています。

 

厚生労働省が確認したシベリア抑留死亡者数は
約55,000人。
これは東京ドームのキャパと同じです。


シベリヤ抑留体験者の高齢化が進み、
この貴重な体験をした方もご存命の方も
年々、その数が減っています。

私達は「何が起きたかを」伝え残していくべきだと
改めて感じました。