日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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8月22日三船殉難事件

三船殉難事件(さんせんじゅんなんじけん)は、
1945年(昭和20年)8月22日に、
引き揚げ船の小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸の3隻が
ソ連軍の潜水艦の攻撃を受け、
1700人以上の命が奪われた事件です。

ソ連参戦で、樺太から日本へ引き揚げ)

1945年(昭和20年)日ソ中立条約を破り日本に参戦したソ連の侵攻に対し、樺太庁
緊急疎開の要項を全島の支庁、市町村、警察に通達します。
それによると疎開対象者は65歳以上の老人、14歳以下の学童、40以下の女性と乳幼児、病人や身体が不自由な者に限られ、その数は約16万人と言われています。
そして南樺太大泊港からは、樺太各地から避難してきた人々が、日本へ引き揚げようと押し寄せます。大泊港から引き揚げ船が、140キロ離れた北海道最北端の稚内との間を往復していたのです。

その民間人を乗せた引き揚げ船を、戦争が終結したというのにソ連の潜水艦が攻撃します!

北海道留萌郡小平町鬼鹿海岸には、三船遭難慰霊之碑が建てられています。

では留萌沖で起きた「三船殉難事件」を見てみます。

 

(その1:小笠原丸の悲劇)

戦争が終結した1945年(昭和20年)8月20午後11時45分頃、引揚船・小笠原丸(総トン数1400トン)が大泊港を出港します。この小笠原丸には、最大収容量の約1500人の人々が乗船していました。

 

小笠原丸は、宗谷海峡を無事に通過し8月21日の午前11時頃、稚内港に入港します。稚内港では半数余りの人々が下船します。そして同日の午後4時過ぎに、小笠原丸は稚内港を出航し小樽経由で秋田県船川を目指します。

翌22日午前4時20分頃、小笠原丸は、留萌近辺の増毛(ましけ)沖を航行していたところ、ソ連の潜水艦L-12からの魚雷攻撃を受け沈没します。
留萌支庁調べによれば死者641人、生存者61人で、収容された遺体は468体でした。

 

実は、この小笠原丸は1910年(明治43年)6月4日に長崎県池島付近で遭難したロシア船を救出しています。その恩人と言える船をソ連は攻撃したのです!!

 

 

(その2:第二号新興丸)

続いて襲われたのが、第二号新興丸です。

第二号新興丸は、8月21日の午前九時頃に大泊港を出港します。この船には、約3600人が乗船していました。

第二号新興丸は、小笠原丸と同じく稚内に向かう予定でしたが、稚内では引揚者を
受け入れる限度をオーバーしたため、行き先を小樽に変更します。
そして、小笠原丸が攻撃を受けた約1時間後の午前5時13分頃、留萌の北西沖を航行していた第二号新興丸は、潜水艦からの攻撃を受け魚雷が二番船倉の右舷に命中しました。さらに、ソ連軍の潜水艦(L-12号・L-19号)2隻が海面に浮上し、銃撃を加え甲板の上にいた人々は次々と殺されます。

第二号新興丸は、通報により援軍にかけつけた日本軍の水上偵察機1機に援護され、
午前9時頃、沈没寸前となりながらも留萌港に入港します。

この第二号新興丸では、約400名もの人々が犠牲になったとされます。

 

(その3:泰東丸)

そして三船目は泰東丸です。

泰東丸は本来、貨物船ですが、大泊港に避難民が溢れていることから引揚船に転用されました。泰東丸は攻撃を受けた三船の中では、最も軽量で、約880トンという小型船でここに約780人が乗船していました。

21日の午後11時頃、泰東丸が大泊港を出港します。

翌22日の午前9時40分頃、留萌沖の陸地が見える留萌小平町の沖西方約25キロの辺りで泰東丸の前に潜水艦が出現します。

これに気がついた船長は、すぐに白いシーツやテーブルクロスを白旗として掲げます。白旗=降伏の意味です。

しかし、このような状況にもかかわらずソ連軍の潜水艦は攻撃をします!!
なんとひどい!!

 御存知のように、すでに戦争が終結していますし、さらに言うと白旗を提示した船舶への攻撃は国際法で禁じられています。

この泰東丸における犠牲者の数は、667名とされています。

国際法違反行為の数々)

「小笠原丸」と「第二号新興丸」も「泰東丸」も、戦争が終わっている時期です。
軍艦ではない民間の、しかも引き揚げ者を乗せた船を、ソ連軍の潜水艦が攻撃しています。
いずれも国際法違反行為です。

(8月22日 停戦協定成立)

1945年(昭和20年)822日・日本とソ連両国で停戦協定が成立します。そして24日、スターリンは、留萌沖のソ連軍潜水艦による輸送船撃沈の禁止、さらに全船舶の攻撃禁止の指示が出されます。

 

(三船遭難慰霊之碑)

北海道留萌郡小平町鬼鹿海岸には小笠原丸・第二号新興丸・泰東丸の犠牲者を
悼む「三船遭難慰霊之碑」が建てられています。

8月22日、
戦争が終わっていたにもかかわらず
3隻の引き揚げ船が
ソ連軍の潜水艦から攻撃を受け、
1700人もの尊い命が奪われました。
決して忘れてはいけない事件です。